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デーモン閣下

デーモン閣下(デーモンかっか、自称紀元前98038年11月10日 - 、英語表記:"His Excellency Demon"、二人称は"Your Excellency Demon")は、ミュージシャン・マルチタレント・ジャーナリスト・相撲評論家・大相撲解説者。早稲田大学社会科学部卒業。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。姉はTBSテレビの小暮裕美子。芸名は、「デーモン小暮」(1985年)、「デーモン小暮閣下」(2000年)、「デーモン閣下」(2010年以降)と変遷。通称は「デーモン」、「閣下(かっか)」。前地獄副大魔王にして悪魔教教祖。「神ゼウスによって約10万年もの間地獄に封印されていたが、ゼウスの封印力が弱まり再び蘇り、人間界へと降り立った。「紀元前98038年11月10日に発生、地獄の都Bitter Valley地区出身」、悪魔としての本名は地球上では可聴音域で発声できない(発声しても口パクにしか見えない)ため不詳とされる。西暦1999年12月31日に「地球征服する」と宣言し、ヘヴィメタル楽曲歌唱を中心に幅広く活動、公約通り「地球征服」を完了し、解散。金色の髪を派手に逆立て、白色を基調とした顔貌。公私混同を非常に嫌い、人間としての側面はあくまで「世を忍ぶ仮の姿」であり、プロフィールは基本的に公表せず、関係者や来歴は必ず「世を忍ぶ仮の」という一節を付加して表現している。年齢も『森田一義アワー 笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」に出演した際「10万24歳」と答えるなどしている。「吾輩」と自称し、「閣下」と呼ばれる。「デーモンさん」、「小暮君」などと呼ばれることもあるが、「小暮君」と呼ばれた際は「閣下と呼べ!」「せめてデーモン小暮と呼んでほしいのだが…」と反発している。非公表である本名(地上での戸籍名)を呼称することは一切許容していない。派手な外見や所作から来る印象ばかりを取り沙汰されることが多いが、「信者」と称されるファンの多くは「作品の内容」「言動」「エンターテイナーとしての技量」を大いに支持している。単に「神と悪魔と人間」という視点だけでなく、幼少時にアメリカに在住していた帰国子女であり、異文化交流に関してのコメントも多い。日本の伝統芸能・文化にも造詣が深く、純邦楽(特にジャパメタのギタリストでもあり、筝曲家の沢井比河流とは親交も深い)・能等と共演することが年間25回を超える。好角家でもあり、相撲知識は好角家や大相撲関係者すら舌を巻く(後述)。頭の回転が早く、テレビ番組での彼のやり取りを見た、閣下支持でも何でもなかった音楽評論家渋谷陽一を感心させている。同時に、裏では芸能界での大先輩やスタッフに丁寧に接するなど几帳面な一面を見せている。悪魔ちゃん命名騒動があった時期に、インタビューで「悪魔は子供が生まれたら“悪魔”と名づけるのか」と尋ねられ、「じゃあ、お前は自分の子供に“人間”と名前をつけるのか」と切り返した。また、その人物像ゆえ、公の場での対談や共演相手の装飾品に十字架が使用されるのを極度に嫌う。FNS歌謡祭で共演した小柳ゆきは、左肩部分に小さな十字架のタトゥがあるが共演時はジャケットを着用し、事なきを得ている。早稲田大学社会科学部卒業(ドリフ大爆笑#163にて、小学校3年生か4年生の時に広島に住んでいたという事を話していた)西暦1999年まではダミアン浜田殿下に託された組織「聖飢魔II」の二代目リーダー及び悪魔教教祖として悪魔教布教活動を行っていたが、「地球征服完了」後はソロ活動を展開している。父は銀行員、帰国子女であり幼少時は日本語よりも英語のほうが上手かった。2007年12月22日にNHKワールドTVで放送された『WHAT'S ON JAPAN』で大相撲の1年を振り返るインタビューを英語、副音声日本語の吹き替え部分両方を自らコメントしていた。取材でアメリカ在住時に通っていた小学校に悪魔の姿で訪問した際、訝しく思った校長に「君、college(専門学校や大学などの高等教育)くらいは行っているよね?」と聞かれ、「University(総合大学)を卒業してますよ」と答えた途端、校長は生徒に向って「彼はこんな格好をしているが、ちゃんと勉強して大学に行っているんだ」と言った。帰国子女である経歴及び桐蔭学園高等学校卒業という学歴について『爆笑問題カーボーイ』(TBSラジオ)で「織田裕二の先輩」とともに暴露された際に認めている。桐蔭学園高等学校 - 早稲田大学を通じた先輩であるやくみつるとは、在学中には面識がなかったものの共通の趣味である相撲を通じて親交を深め、「やく先輩」と呼ぶほどの関係となっている。やくとは相撲以外にも漢字力に優れるという共通点があり、過去2回民放のバラエティ番組で対決しいずれも敗北している。小学校在学中に坂上二郎司会のラジオ番組に出演し、坂上のものまねで『学校の先生』を歌った。当時から広島市内で布教活動を手がけており、地球統一による平和への願いは「どの悪魔よりも強い」と自負している。怪獣やヒーロー等、特撮フィルムのキャラクターについての造詣も深く、ゴジラの鳴き真似コンテストに出場して優勝した実績を持つ。早稲田大学在学中に展開していたバンドでは、演目に「ウルトラマンの歌」を取り上げることも多かったという。右半身をウルトラマン・左半身をレッドキングに仮装して独りで格闘シーンを演ずるパフォーマンスなど、特撮キャラクターのモノマネの巧みさから、同学の先輩で特撮映画出演実績もあるコメディアンラサール石井から真剣に入門勧誘を受けたとされている。同学在学中早慶戦の試合前にマイクパフォーマンスとしてゴジラの鳴き真似を披露し、スタジアム観衆全員からの喝采を浴びたことでも知られる。怪獣映画や特撮番組に造詣が深い事から、当時早稲田で創設されたばかりの特撮サークル『怪獣同盟』の創始者であり、後に「平成仮面ライダーシリーズ」のチーフプロデューサーとなった高寺成紀とは交流があったという。『たけしのお笑いサドンデス』に出演し、ビートたけしから「将来タレントになれる」と評価されたこともあり、たけしから一目置かれている。「タモリ倶楽部」で、「大学生のコンパ芸」を紹介する放送回で、世を忍ぶ仮の名で友人等と出演し、ゴジラの鳴き真似や、他の宴会芸などを披露。音楽活動では大学時代フォークソングクラブに所属し「走り幅跳び」や「顔面大陸棚」「生老婆(ナマローバ)」「紫馬肥(ムラサキウマゴヤシ)」「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関するバンド」というバンドを組んでいた。同学の先輩であるサンプラザ中野がバンド爆風スランプを結成するのに伴い、中野の後を継いで「スーパースランプ」の2代目ボーカリストに就任している。早稲田大学時代はスキンヘッドで、ビニ本屋でアルバイトをしていた事も有る、その店に、当時「ビニ本収集家」としても有名だった谷村新司が来店した時、デーモン小暮がレジに居たと、デーモン小暮自身が語っている。谷村新司と共演した際も「谷村さん,○○っていうビニ本屋に入った事あるでしょう?」と言い「あそこで、バイトしてたんですよ、あ、谷村新司が来た、と判って可笑しくて必死に笑いこらえてました」と話し、谷村新司を驚かせた。『徹子の部屋』(テレビ朝日系)にゲストとして招かれた際、早稲田大学卒業式に悪魔の姿で出席し、当然ながら大学職員が制止したが「これは悪魔の正装だ!」「みな明日から社会に旅立つ姿で卒業式に来ている。吾輩が明日から社会に旅立つ姿がこれなのだ!」との発言を繰り返し強硬に押し切ったところ、通りがかった知らない教授に「最近は君のような気骨のある学生が少なくなった」と激励を受け、共に記念写真を撮った、というエピソードを披露している。このエピソードは著書『我は求め訴えたり』にも記載されている。生まれて初めて歌で稼いだ楽曲は世を忍ぶ仮の大学時代に当時の居酒屋で歌った北島三郎の「与作」で、現在においてもカラオケの十八番である。1982年(魔暦紀元前17年)12月から本格的な悪魔教の「布教活動」を兼ねて聖飢魔IIのフロントマンとしてボーカルをつとめ、各地で「黒ミサ」を主催した。所属していたレコード会社のCBSソニーを「市谷悪魔教会」と呼び、レコード・CDを「教典」と称していた。メディアへの登場時には悪魔的世界観を強調して振る舞ったが、トークは友好的に展開し、1988年ザ・ベストテンに出演時には黒柳徹子の依頼でルーク篁の伴奏に合わせてマイウェイの盛り上がり部分を歌い、諸星和己に会話に割り込まれるも全く動じず笑って返し即興でパラダイス銀河1番の弾き語りを演じる、アナウンサーに冗談でカブキロックスと紹介された際には氏神一番の物真似でカブキロックスの設定を語るなどした。一方で局側からの依頼などで悪魔的な面が強調されることもあり、1990年7月27日、8月31日「有害ロック」で『ミュージックステーション』に出演した際には出演者の頭を鷲掴みにする、光GENJIと一緒に装飾を引き剥がすなどスタジオを破壊したり、雛壇に上って内海光司にバナナを無理矢理食わせるなどした後消火器をまき散らし、司会の生島ヒロシに消火剤を浴びせる、CMに入る際「もっとぶち壊してやる、もっとぶち壊してやる、ぐわははははは」と破壊的なセリフを口にし生島にパイナップルを押し付けるなどした。。同年、「小暮伝衛門」名義でソロアルバム「好色萬声男」をリリース。1999年(魔暦元年)の「地球征服完了」後の2年間は、ソロプロジェクト『!(エクスクラメーション)』で活動していたが、2003年(魔歴5年)にはデーモン小暮閣下名義でソロアルバムをリリース。2005年(魔暦7年)に期間限定で聖飢魔IIを復活させた。究極の解散「黒ミサラスト」においてはEL-DORADO演奏前に「残念ながら、聖飢魔IIには新しい年はやってこない。だが、諸君たちには必ず、新しい年がやってくる」「ここにいる全員が聖飢魔IIに追いつき、追い越すことを達成したとき、必ずや、真の黄金の都は築かれるであろう。さあ、早く行け、見失わないうちに!」とメンバーと信者にエールを送った。聖飢魔IIの再解散の翌年2006年(魔暦8年)に公式ファンクラブ「縁魔堂」が開設された。デビュー当時から話す時と歌う時の声の伸びが全く違うと言われており、声色変化のデビュー・アルバムの歌唱表現等をみる限り、彼本来の俳優志向を垣間見ることができる。1986年夏、岡山県蒜山高原で行われた「蒜山ロックフェスティバル」にて、オープニングの「創世記」で野外ステージの屋根上からステージまで飛び降りて登場する際、機材セットに衝突して脚を骨折した。しかし当初の段取り通り演奏に突入し、「THE END OF THE CENTURY」終了直後に信者(ファン)に対して「蒜山高原の諸君元気か!! 吾輩は元気でなくなってしまった、急に」と言い失笑を買う。しかし「吾輩はこのミサを全うする」とMCを行い、マイクスタンドを杖代わりに説法を含めた二十分強の公演をこなした。悪魔組曲での天地逆転唱法(三点倒立で歌う)は行わなかったが、最後に「本日は申し訳なかった、この借りは必ず返す」と言い残し病院に直行し、重傷のため負傷した脚部を「改造手術」し入院。付き添っていた実母に対して病室で見舞いに来た者を労うため「まぁまぁ梨でも剥いてあげたら?」と依頼したことが、当時宝島社の編集者であった映画評論家、町山智浩により「ママぁ、梨剥いてー」と実母に甘えてせがんでいたとの都市伝説となった。本人は後に著書で『梨は皮ごと食べるので「梨剥いて」などと言うわけがない』と語り伝説を否定している。実母は閣下の「悪魔ぶり」を否定するどころか、普段楽屋を訪れた際に関係者に「デーモンの世を忍ぶ仮の母でございます」と挨拶したことがある。稀に見る好角家であり、閣下本人の公式サイト上にもプロフィールに明記されている。閣下は「ファン歴300年にもおよぶ相撲ファンである」と自称し、寛政年間=西暦1790年頃(魔暦紀元前210年頃)の、実質的な初の横綱とされている谷風と小野川の取組なども当然観て来たと話している。閣下が好角家となったのは、祖父が旅順工科大学で相撲部に所属していたことも影響している。世を忍ぶ仮の小学生時代に祖父と話がしたくて相撲に関する文献を読みあさった。また広島での布教活動中、小学校の砂場での相撲取りがのめり込む切っ掛けとなった。絵画教室で若浪がうっちゃりを見せる勇姿を秀逸に表現して周囲を驚かせ、高校生時代には、受験勉強もそこそこに当時の蔵前国技館近隣の古書店に足繁く通い、相撲に関する諸文献をむさぼるように読み漁り豊富な知識を培っていった(この古書店には後の逆鉾昭廣らも頻繁に通っていたとされている)。学園祭においては、相撲同好会の展示室の片隅で自ら相撲文字を書き続け、周囲を驚かせた。単に知識を蓄えるのみではなく、早稲田大学在学中には後述のフォーク同好会のみならず、相撲同好会にも所属して実践的かつ多角的な相撲競技の分析・稽古に取り組んでいた。大学の校舎の屋上で相撲をしたなどの逸話も残っている。体格に恵まれていれば力士になりたかったと語ったこともある(ベースボールマガジン社発行の大相撲情報誌『VAN VAN相撲界』にて連載コーナー「我輩は力士になりたかった」も持ち、タイトルページにはモノクロ写真が掲載されていた)。このため相撲に対する見識は高い。閣下が特に熱狂的な相撲ファンとなったのは玉の海の活躍がきっかけであると言われており、以来国技館での本場所にとどまらず地方場所へも年に数回は必ず通っている。また、本人はあくまで悪魔の姿で観戦したかったが、日本相撲協会協会理事長直々に「お客さんが相撲に集中できなくなる」という理由で悪魔の姿での入館を謝絶(禁止)されてきたので、通常は人間の姿での観戦に留まっている。閣下贔屓の力士は輪島であり、悪魔のヒーローとして崇めている(「悪魔のヒーロー」とは、人間界における蔑称を指すものではなく、魔界においては最高の尊称である)。悪魔の姿での入館については、北の湖敏満が理事長であった2005年に館内放送のゲストに招かれた際、協会から「どうぞ悪魔の姿で」との返答があり、それで「出入り禁止が解けた」と解したと、北の湖が亡くなった際にコメントしている。1987年から1990年(魔暦紀元前12 - 9年)に放送されたニッポン放送『デーモン小暮のオールナイトニッポン』では「大相撲を666倍楽しむ方法」という大相撲コーナーを設け、当時現役であった大徹にスポットを当てるコーナーを独立、大徹本人を生出演ゲストとして迎えるまでに至るという、当時の相撲協会の広報派遣としては異例の深夜に現役力士がゲスト参加する画期的コーナーにまで成長させた。これ以降閣下は大徹引退後の断髪式にまで招聘されて鋏を入れているほか、今に至るまで閣下の「黒ミサ」に頻繁に顔出しや差入れを行うなどの信頼関係が築かれている。大徹以外では琴富士が悪魔組(聖飢魔IIのファンクラブ)会員であったこともあり佐渡ヶ嶽部屋と永く親交が深く、2005年(魔暦7年)11月場所後には悪魔の姿で正客として佐渡ヶ嶽部屋に招かれ、稽古場上座に親方らと列座して大関琴欧州(当時、後の琴欧洲、現在は、年寄・鳴戸)・関脇(当時・元大関)琴光喜らの稽古を中心に熱心に見覧している。オールナイトニッポンでは、芸能人・著名人の迷言を集め競わせて番付を付けるコーナー「夜霧の横綱審議会」も設定され、本格的な相撲ネタも多数寄せられ若年層中心の『オールナイトニッポン』リスナー層世代以外にリスナー層も増加させた。番組最終回には次期パーソナリティーであるロック歌手大槻ケンヂと電話で引継ぎのあいさつを行った際に人気の相撲コーナーの継続を要望したが、大槻が大相撲には無知・無関心であったため辞退し、閣下は悲嘆にくれたことも知られている。閣下の好角は広く認知され、NHKを含むメディアから出演要請を受けた。例えば2005年(魔暦7年)11月9日放送の『クローズアップ現代』ではスタジオ・ゲストとして悪魔の姿で琴欧州の話題を中心に大相撲の現状と展望を述べ、2006年(魔暦8年)1月15日の大相撲初場所8日目にはNHKの大相撲中継ゲストとして午後1時のBS2の中継開始から午後6時の総合中継終了まで出演した。通常、相撲中継における著名人ゲストの出演は中入り後のみであり、三段目の取組から打ち出しまでの全編にわたって出演し解説を担当するのはNHK相撲中継史上初であった。通常は場所入りする力士や場所界隈の風景の映像から始まる大相撲中継のオープニングも閣下が会場入りする模様からスタートする異例の扱いだった。中継終了間際に感想を問われ、「『紅白歌合戦』に初めて出たときよりも感激した」と述べていた。解説は角界関係者・メディア・視聴者ともに概ね好評で、再出演の要望が多く、2007年(魔暦9年)1月14日の大相撲初場所8日目の中入り後中継、2009年(魔暦11年)1月18日1月場所中日の正面解説と二度にわたってゲスト解説者として出演した。この間世を忍ぶ仮の幼少時代の在米経験を買われ2008年(魔暦10年)5月24日の大相撲夏場所14日目のデジタル総合・衛星第2の英語副音声の中入り後解説も担当している。2006年(魔暦8年)12月30日のNHK『大相撲この一年』では、北の富士勝昭・舞の海秀平・やくみつるらと共に座談会形式で角界の一年を振り返っており、以降毎年末に同じ面子による『大相撲とことん言います』が放送されている。2008年12月7日の『ボクらの時代』(フジテレビ系)では、内館牧子、やくみつると大相撲談義を行った。2007年11月7日放送のクローズアップ現代でも時津風部屋力士暴行死事件と角界の抱える問題について「膿を出し切るいい機会ではないかと」と持論を展開した。2010年6月21日のニュースウオッチ9では、多数の大相撲関係者が野球賭博に関与したことで名古屋場所の開催が危ぶまれていることに関して「絶対に開催すべき。中止すればこつこつと努力している多数の力士がかわいそう。努力している力士で大相撲を守りきるのがファンへの罪滅ぼし」と電話インタビューの応答が放送された。2011年1月10日、大相撲1月場所2日目のNHK大相撲中継に出演。翌年の初場所で期待する「夢番付」を発表したが、番付中空白になっていた東前頭筆頭の欄に自ら「琴田宮」と琴光喜啓司の過去の四股名を書き込み「琴光喜に関しては処分に疑問を持っている。反省したうえで十両下位からやり直してもいいのではという私見だった」と語った。好角家であることが広く世に知られてからは、本業のミュージシャンとしての仕事よりも大相撲に関わる仕事の方が増えてしまい、テレビ出演中に「我輩が歌手だということを忘れられてしまいそうだ」と危機感を吐露することもあった。大相撲においてスキャンダルが起きるたびにマスコミからコメントを求められることについて「我輩は大相撲界のトラブルに対処する専門家ではない」とブログでマスコミをたしなめるコメントも出している。2009年11月11日の自サイト掲示板にて『「祝賀ビールかけ」や「シャンパン・ファイト」は時代に逆行する卑しい行事』と非難、『地球という生命体に失礼な行為』であるとし、これを行う競技は応援しないことを宣言したが、後にそれを行う日本野球機構に所属する広島東洋カープのファンである事を公言し、その本拠地であるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島のスコアボードで流される球団歌『それ行けカープ 〜若き鯉たち〜』の2014 - 15年版の歌唱映像には自身も参加していた。

出典:wikipedia

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