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中原師員

中原 師員(なかはら の もろかず)は。鎌倉時代の御家人・吏僚。中原氏は明法道や明経道を司る家系。師員の家系はその傍流に当たり、中原師任の一子・貞親の子孫。なお、師員の父・師茂は中原親能(藤原親能)・大江広元(中原広元)兄弟の従兄弟にあたる。元暦元年(1184年)、中原師茂の子として誕生。その後、中原親能の養子となる。師員は藤原頼経が鎌倉幕府4代将軍に推挙されて鎌倉に下向した際、随伴して侍読を担当し、そのまま幕府の吏僚となった。嘉禄元年(1225年)12月、中条家長や三浦義村、二階堂行村らと共に評定衆に任じられた。寛喜3年(1231年)、春の除目で大外記に補任、その直後の同年5月に摂津守に任官している。嘉禎2年(1236年)の12月26日条に「去る十八日の除目の聞書到着す。武州(北条泰時)左京権大夫を兼ね給う。師員主計の頭に任ず」とある。連署執権北条時房死後には政所下文に北条泰時の次に署判を加えている。建長3年(1251年)6月15日、出家。6月22日、死去。師員は将軍・藤原頼経の側近でもあったが、その立場は、京と鎌倉、評定衆の評定と政所、恩沢奉行としては執権と将軍の結節点となっており、執権対将軍という中では中立的な立場がそもそもの役割だったのだろう。そのため寛元4年(1246年)の宮騒動においても、藤原定員のように連座することも、後藤基綱のように警戒されることもなく、政権中枢であり続け、子の資連も宗尊親王の御所奉行、評定衆として活躍し、その家系は鎌倉時代末期には摂津氏と呼ばれて幕府中枢の事務官僚を世襲した。子・師連と共に『吾妻鏡』に多数実名で登場することから、『吾妻鏡』編纂の原史料としてその日記・筆録の類が利用された可能性が高いとされている。

出典:wikipedia

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