若林 牧春(わかばやし ぼくしゅん、男性、1886年9月11日 - 1974年6月29日)は、明治・大正・昭和期の日本の歌人、詩人、教育者。本名は岡部 軍治(おかべ ぐんじ)。他の雅号に暁花、星骨がある。1886年(明治19年)9月11日、東京府南多摩郡町田村本町田(現東京都町田市本町田)に生まれる。文学好きの兄の影響で幼少期より詩歌に親しみ、蒲原有明、岩野泡鳴選の詩壇や佐佐木信綱、窪田空穂選の歌壇に投稿した。1907年(明治40年)東京府青山師範学校卒業後、故郷に帰って町田尋常高等小学校(現・町田市立町田第一小学校)に奉職。1909年八王子尋常高等小学校(現・八王子市立第七小学校)に転じ、1917年より八王子市立第四小学校校長(同年9月より八王子尋常夜学校校長兼任)、1927年より八王子尋常高等小学校校長を務め、1941年に立川市視学となった。八王子市内の小学校にプールを完備させるなど教育に精励する傍ら、趣味として「萬朝報」や「文章世界」への投書を続け、1911年北原白秋が創刊した文芸誌「朱欒」に加わった。「朱欒」廃刊後は白秋の門下である河野慎吾、村野次郎らが発行した「秦皮」に属したが、1935年に白秋が多磨短歌会を興し、歌誌「多磨」を創刊すると、これに入会して八王子支部を結成した。「多磨」終刊後は宮柊二が創刊した「コスモス」を経て、中村正爾の「中央線」会友となり、歌作を発表した。1965年10月に生涯唯一の歌集『冬鶯集』を出版。1968年12月には高尾山に牧春の歌碑が建てられた。1974年(昭和49年)6月29日没、享年88。戒名は慈光院牧春秀月居士。墓所は神奈川県海老名市勝瀬の鳳勝寺。北原白秋の最古参の弟子であり、「朱欒」などで活躍した後期浪漫派の歌人である。多磨短歌会の結成に際しては「君も来い」と白秋から声がかかり、直ちに入会。以後、歌誌「多磨」の主要歌人の一人として多磨歌風に随順した。後年は多摩歌話会、むらさき短歌会の指導に当たり、多摩地域の歌壇の発展に貢献した。牧春の白秋に対する敬慕の念は非常に深く、1962年に同じ白秋門下の中村正爾、薮田義雄らの助言と協力を得て高尾山に白秋の歌碑を建立したほか、1971年6月には自宅庭に白秋の歌集『渓流唱』の一首の歌碑を建立した。また、白秋の長男である北原隆太郎が結婚した際には歌誌「中央線」に祝婚歌を出詠した。牧春は自宅で数十羽の小鳥を飼育する愛鳥家であり、鳥を題材とした歌を多く詠んだ。『冬鶯集』は白秋からの慫慂を受けて出版されたものであるが、長男の戦死や妻の急死、八王子空襲などの影響により、企画立案から出版までには20年の歳月を要した。空襲で住宅と蔵書一切を焼失した牧春は知人宅を転々とする生活を送り、第二次世界大戦終戦直後には立川基地に人夫として駆り出されるという屈辱を味わった。このような経緯から、『冬鶯集』は戦争を題材とした作品が多数収録された歌集となっている。当時について牧春は、「冬鴬集後記」の中で、「戦傷に血を吹く心を作歌によってのみ慰め得た時代である」と語っている。また、同歌集について多摩文化研究会創立者の鈴木龍二は、その著書『武州八王子史の道草』の中で、「これは短歌作品による私達の郷土、壊滅した八王子の戦災史である」と述べている。牧春は短歌への思いやこだわりを「冬鴬集後記」の中で次のように述べている。父は村会議員や学務委員を務めた村の有力者で、兄の文平(ぶんぺい)は「若林香骨」、「若林秋光」の筆名を持つ文学青年であった。文平は1920年、39歳のときに南多摩郡町田町の第12代町長となり、1924年まで務めた。牧春が青山師範学校へ入学したのは、村の教育は村の者に当たらせたいという父の要望と、自らは文学活動に専心したいという兄の希望に応えるためといわれる。町田市内の小学校を中心に、多くの校歌を作詞した。※忠生第六小学校、緑ヶ丘小学校は統廃合により閉校した。詩歌を発表した新聞・雑誌(主なもの)を以下に示す。なお、「秦皮」は1923年に分裂し、牧春らの「とねりこ」と村野次郎らの「香蘭」に分かれている。2009年2月1日から4月12日まで、町田市民文学館ことばらんど2階展示室にて町田市民文学館市民研究員発表展「まちだ文学さんぽ」が開催され、同館が所蔵する牧春の原稿や歌稿が展示された。以下はその主なものである。このほか、作詞した校歌の歌稿や楽譜が展示された。
出典:wikipedia
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