サンダカン死の行進(サンダカンしのこうしん)は、1945年、太平洋戦争(大東亜戦争)中に大日本帝国が設置したマレーシア・サンダカン捕虜収容所における日本軍によるオーストラリア・イギリス軍兵士捕虜に対する捕虜虐待疑惑および「死の行進」と言われる行為である。これに伴い1000人以上の捕虜が、ラバウル豪軍総司令部軍法会議の豪側検事によれば、7人を除き全員死亡したとされる。「行進」を終えてラナウに到着してから死亡したもの、衰弱が激しく「行進」に参加せず死亡したものも存在し、すべての捕虜が行進中に死亡したのではない。1942年、ボルネオ島北東に、空港建設を進める為にボルネオ捕虜収容所の分所として設置されたサンダカン捕虜収容所(所長:星島進大尉)には、1943年秋の時点で、オーストラリア兵1800人、イギリス兵700人、計約2000人(2500人という説もある)が収容されていた。当初は、サンダカン収容所やボルネオ島の各収容所における捕虜の扱いは、人道的であった。捕虜は飛行場建設に使役されるなどし、また労働には賃金も支払われていた。売店の運営も許され、監視も緩やかだった。こうした扱いには、敗戦後に自殺したボルネオ捕虜収容所の最高責任者・菅辰次大佐の影響があったとされる。しかし、捕虜の逃亡や、ライオネル・マシューズ中尉が地元住民と協力して反乱を計画した「サンダカン事件」が発生し、監視が厳重になる。なおオーストラリア軍では、逃亡の試みを捕虜の義務としていた。これは「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓を持つ日本軍とは相容れないものであった。その後、戦局の悪化によるさらなる厳罰化、南方軍司令部からの命令による食糧の配給の削減(当初一人一日550~700gの米と400~600gの野菜が支給されていたが、1945年1月には米200~300gに削減。しかし実際には米100gとわずかな野菜しか支給されなかったという)、医薬品不足などにより待遇は悪化。過酷な使役に加え、伝染病、栄養失調が蔓延。病死により1944年末には既に計1600人になっていたとされる。殺害されたオーストラリア兵の一人にポール・キーティング第24代オーストラリア首相のおじがいたと報道されている。連合軍のボルネオ島への空襲が相次ぐようになり、1945年1月に日本軍は空港の修復を断念。アメリカ軍がボルネオ島西海岸に上陸する判断した日本軍は、日本軍部隊を600km離れたアピに移動させ、それと共に捕虜をボルネオ島西、260km離れたラナウに移動させる事を決定したが、特にサンダカンからラナウまでの道のりは、連合軍の空爆を避けるために密林や湿地などの険しい道のりであった。捕虜500人を12日間で落伍者無く移動するようにとの命令が、山本正一大尉に下された。山本は医薬品供給の増加と3週間の日程を要求するが、これは司令部によって却下。結局比較的頑健な470人が第一団として出発することとなり、出発前に山本は最後尾の第九班の責任者・阿部一雄中尉に落伍者の捕虜を処分する許可を与える。1945年1月29日から2月6日にかけて470人が9班に分けられて、間を置いて出発。捕虜たちは熱病と栄養失調で弱った体に約30kgの日本兵の荷物を背負わされ、豪雨でぬかるむ密林を徒歩で移動する事となる。靴を履いていた者は、1割程度だった。さらに約束されていた食料の支給もままならず、各班の責任者は食料の確保と支給に留意するものの、状況は悪化し、後半の班はカタツムリやカエルなどを口にして飢えをしのいだという。劣悪な環境下での行軍は、捕虜だけでなく、多数の日本兵も犠牲者と死者を出した。そして動けないと判断された捕虜は、「落伍者を出さない為に」阿部中尉の命令を受けた兵士によって射殺された。しかし目的地にたどり着いた捕虜たちに安堵する暇はなかった。ラナウに到着した第一班~五班の捕虜約200名は、食料と医薬品不足の中労働に狩り出され、元気そうに見える者は45km離れたパギナタンまで20kgの米袋を担がされて歩かされ、途中で倒れた者は殺害された。第六班~九班の捕虜約200名は途中で40名ほどが落伍し、途中のパギナタンで行軍は中止。第一班~五班の捕虜が運んでくる食料に頼りながらも、約一ヶ月で生存者はさらに100人ほど減った。生存する捕虜全員がラナウで合流した4月時点での生存者は約150人となっていたが、その後第二団が到着する6月下旬に生存していた捕虜は、6人だった。サンダカン捕虜収容所では連合軍の空爆による被害と、食糧配給の削減により、1945年3月には毎日10人以上の死者が出ていたという。さらに4月以降は米と水の配給が停止という状況で6月末には捕虜の数は830人弱まで減る。5月17日に星島大尉に代わり高桑卓男大尉が所長に就任。収容所に空爆に加え艦砲射撃をも受けた高桑は、5月20日に受けていた捕虜移送命令を急遽決行。5月29日夜、歩ける者536名・11班を出発させると同時に、ごく一部の建物を残して収容所は焼き払われた。衰弱していた捕虜たちは監視員らにより激しい暴行を受け、かつジャングルに追い立てられて殺害された。行軍から落伍した捕虜を渡辺源三中尉率いる監視員たちが暴行し追い立て、それでも動けない捕虜は後から来る辻曹長率いる班に引き渡され、処刑された。処刑はすべて台湾人の監視員が実行させられた。捕虜への食料は1日米85gしか支給されず、6月25日にラナウに到着した捕虜は183人となっていた。この時、キャンベル、ブレイスウェイトの二人が別々に脱走、米軍に引き渡されて生還している。収容所には288人の捕虜が残されていた。彼らの殆どは衰弱して動けない病人であり、後は仲間の面倒を見る為に自発的に残った捕虜たちだった。既に建物は焼き払われ、彼らは木や葉っぱで雨をしのぎ、医薬品も食料も支給が停止されていた為、野草の根茎や腐った残飯を食べて生き延びていた。1945年6月9日、森竹中尉は岩下少尉ら37人の日本軍兵士に75名の捕虜を選抜し、出発させた。この第三団は1人の日本兵のみが生き残り、他は全滅した。サンダカンには6月9日に185人の捕虜が残されていたが、7月12日にはその数は50人に減っていた。高桑大尉より早急にサンダカンから撤退し、捕虜を処分せよという命令を受けていた森竹中尉は、自然死が確実な27人を放置し、23人を処刑する事を決定。翌7月13日に室住久男曹長に捕虜の処刑を命じ、室住は12人の台湾人監視員に銃殺の実行を指示、躊躇する監視員には拳銃を抜いて脅迫。23人の捕虜は銃殺され、その死体は防空壕に投げ捨てられた。残る27人の捕虜はその後も一ヶ月近く生き延び、8月14日か8月15日に最後の二人が死亡したという。一方、地元の料理人の少年は「7月に23人が射殺された後に生き残っていたのは28人で、そのうちの一人が刀で斬首された」と証言し、該当する場所から十字架や頭蓋骨が離された白骨死体などが発見された。しかし、日本軍兵士側は否定し、斬首疑惑に関しては裁判に至らなかった。ラナウでは6月25日には約190名の捕虜が生存していたが、6月28日にはもう19人が死亡していた。生き残った捕虜たちは、1日米70~75gというわずかな食料で、過酷な労働(衰弱した体で、20kgはある食料の運搬、水汲み、設備建築作業など)に従事させられていたという。かねて台湾人監視員より高桑は捕虜全員を殺害すると聞いていたキース・ボッテリル以下4名が、7月7日夜に脱走。3名がオーストラリア軍に救出される。7月18日には捕虜収容所という名の草ぶき屋根の小屋が完成。生き残っていた捕虜72人のうち、赤痢患者である34人が床下に押し込められる。彼らにはもはや死体を埋葬する体力もろくに残っておらず、7月20日には強制労働が停止される。7月26日、スティップウィッチ以下2名が脱走し、スティップウィッチのみ助かる。8月1日朝、高桑は生き残っていた33名の捕虜を三つのグループに分けて処分する事を決定。動ける者は自らの足で墓地まで向かう事を強要され、動けない者は担架で運ばれ、全員が銃殺され、処分は終了したという。オーストラリア軍が行ったBC級戦犯裁判により、収容所側将兵には下記のような極刑が科せられた。また、殺害を実行した台湾人監視員達には、懲役刑が科せられた。サンダカン捕虜収容所を統括するボルネオ捕虜収容所クーチン本部に指令を出した第三七軍司令部に対しては、馬場正郎中将(軍司令官)が絞首刑になったものの、第一回の捕虜移動を計画した山脇正隆中将(前軍司令官)はこの件に関しては一切罪に問われる事はなかった。ボルネオ捕虜収容所全体の最高責任者であり、関係者の中では比較的人道的であった大佐は9月16日に自殺していた為、訴追される事はなかった。なお、これら罪状の立証について、殆ど審理は行われておらず、刑の根拠には疑念を抱かざるを得ないとする見解もある。収容所の料理人が「(1945年6月初旬~7月初旬に)捕虜が材木製の十字架に釘で固定されて生きたままナイフを使って肉と内臓をえぐり出されていた」と証言。日本軍の食料用の豚を盗んだみせしめとして殺された可能性が指摘されている。サンダカン収容所での生存率は1%にも満たず、すなわち死亡率は99%超であり、日本軍の捕虜となった英米軍捕虜の死亡率が一般に27%であることと比較しても異様に大きい。なお、ドイツ軍捕虜となった英米軍将兵の死亡率は4%である。捕虜虐待・虐殺の原因としては、収容所監視員が台湾から徴用された軍属で、日本人から受ける差別待遇(食事の量が異なる)などの不満を捕虜に向けていたとの指摘もある。また、戦況の悪化によって、一時的に「自己の敵に対する明確な支配力」を確認するために拷問や虐待を行なったとの分析を田中利幸は行っている。なお、こうした事態は、ベトナム戦争においてオーストラリア軍が行った残虐行為においても見る事ができるとも指摘される。この事件が東京裁判で取り上げられなかった理由としては、田中は「犠牲者のプライバシーや近親者への配慮」を挙げている。現在、サンダカンには戦争記念公園(Sandakan Memorial Park)がある。追悼記念碑、追悼パビリオンも建設され、サンダカン収容所、ラナウ収容所、死の行進について説明がなされており、パビリオンの扉には「LEST WE FORGET(我々が忘れてしまわないように)」とある。オーストラリアで研究を行った田中利幸による『知られざる戦争犯罪 日本軍はオーストラリア人に何をしたか』(大月書店 1993年)の英訳が1996年にアメリカで刊行されてから、このサンダカン収容所事件や、インドネシアのバンカ島でのオーストラリア軍従軍看護婦虐殺事件、慰安婦強要(未遂)事件、人肉食事件などが米豪で知られるようになった。女流作家のアグネス・キースが小説『Three Came Home』において、行進の中で死に至る前に捕虜は日本兵に切り裂かれ、墓場に押し込まれていった、などという物語を書き、それがハリウッドで映画化までされたこともあって、これにより欧米社会に「サンダカン死の行進」における日本兵の残虐的なイメージ付けがなされていったとも言われている。
出典:wikipedia
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