なだしお事件(なだしおじけん)は1988年(昭和63年)7月23日に海上自衛隊潜水艦と遊漁船が衝突し、遊漁船が沈没した海難事故。海難審判での事件名は潜水艦なだしお遊漁船第一富士丸衝突事件。1988年(昭和63年)7月23日、横須賀港北防波堤灯台東約3km沖で、海上自衛隊第2潜水艦群第2潜水隊所属・潜水艦「なだしお」(排水量2250トン、乗員74名)と遊漁船「第一富士丸」(154総トン、全長28.5m、定員44名)が衝突し、第一富士丸が沈没。第一富士丸の乗客39・乗員9(定員超過)のうち30名が死亡、17名が重軽傷を負った。死者のうち、28名は沈没した船体の中から、1名は現場付近の海中から遺体で発見された。残りの1名は救助後病院で死亡。事故発生時の救助・通報の遅れに対する批判およびバッシングや、その後、艦長らが衝突時の航海日誌を後に書き改めていたことが「改竄」と報じられたこと、なだしおの軍事機密とされる旋回性能の検証開示を行わせたことでも話題となった。この事件によって当時防衛庁長官であった瓦力が引責辞任した。1992年(平成4年)に、なだしお・第一富士丸双方の責任者に有罪判決が下されている。「なだしお」は、7月23日午前7時に在日米軍横須賀海軍施設を出港。伊豆大島北東沖での自衛艦隊展示訓練を終え、午後12時33分頃に海上自衛隊横須賀基地へ帰投を開始した。午後2時30分頃に当直員の交代が行われ、艦長Xも艦橋に昇橋していた。なだしおの乗組員は艦長Xを含め73名、これに第2潜水隊司令寺下清道を加えた、計74名が乗艦していた。「第一富士丸」は、午後2時15分に横浜港鈴繁埠頭を出発、新島へ向かっていた。同船の所属していた富士商事有限会社は赤字経営で従業員への給料遅配が続いており、船長Yは1か月前に船長に就任したが、この航海を最後に同船を降りる意向で、不満を抱きつつ操船していた。なだしおはスクリューを後進したため数百メートル後退したが、十数分後に現場へ戻ると、第一富士丸の右側に近づきゴムボートや命綱を用いて救助活動を行い3名を救助した。第一富士丸は左に転覆していたため、左側の方により多くの遭難者がおり、他はヨットAが3名、民間タンカーBが13名、護衛艦「ちとせ」が1名を救助した。午後4時頃、富士商事の社長穴沢薫らが、現場へ急行した。午後4時30分頃、目黒区の宿舎にいた海上幕僚長東山収一郎に第一報が届く。事故発生当日、石川県に滞在していた防衛庁(当時)長官瓦力について、自衛隊機はなく民間機を待ったため帰京が遅れ、海上および航空自衛隊の連携が取れないことも表面化した。瓦は、8月24日に辞任している。午後6時40分、防衛庁にて事故後初の公式記者会見が開かれ、この時点までに17名が救出されたと発表した。翌24日午前0時50分、海上保安庁の警備救難監辺見正和が、乗員乗客48名中19名を救出、うち1名が死亡と発表。7月27日、第一富士丸が引き揚げられ、あらたに20遺体が発見され、この時点で死者29名行方不明者1名となる。事故後、なだしおの救助活動、特に「3名しか救助できなかった」という事実に批判が集中し、「潜水艦乗員は甲板に立ったまま見殺しにした」などの「証言」が相次いで報じられ、世間の大きな注目を集めた。ただし、中には誇張や誤報も存在したことが判明している(後述)。また、潜水艦の性質上、すぐに海中に飛び込むとスクリューによる二次被害の可能性がある点も、ほとんど触れられていなかった。7月26日には潜水艦隊司令官久保彰が横須賀地方総監部に待機する行方不明者家族に謝罪し、翌7月27日には海幕長東山が総監部の遺体安置所にて、遺族らに謝罪した。東山は、24日に「潜水艦は無過失」と発言して世論の反発を買っており、27日に釈明した。なだしおの乗組員のうち、艦長Xら幹部15名を除く乗組員59名について、8月2日夜に上陸が許可された。艦長Xは更迭され、8月17日から事故犠牲者遺族のもとを訪問し謝罪した。1989年(平成元年)7月28日、防衛庁は東山・Xら海上自衛隊幹部13名への行政処分を発表した。7月25日、横浜地方海難審判理事所は、この事故を重大海難事件に指定し、調査本部を設置した。8月上旬までに、なだしおの旋回圏(=設計上:半径160m)が明らかにされ、8月13日に洋上検証が行われ、転回圏・制動距離に関するデータを取った。これは防衛庁から任意提出された数値とほぼ同値であった。また8月27日に川崎重工神戸第4ドックで行われた実地検証によって、なだしお側だけでなく、第一富士丸側の過失の存在も明らかになった。9月29日、横須賀海上保安部が、なだしお前艦長Xと、第一富士丸の船長Yを、業務上過失往来妨害と業務上過失致死傷の疑いで横浜地検に書類送検した。1989年(平成元年)11月15日、元艦長Xらが航泊日誌を書き改め、衝突時刻を2分遅らせ「午後3時40分」とし、かつ原紙を処分していた(規則違反)ことが発覚し、「改竄」と報じられた。この問題は翌16日の参議院内閣委員会で取り上げられ、日本社会党の山口哲夫らは、元艦長Xおよび航泊日誌に関与した乗員2名の証人喚問を要求した。同年12月27日には、弁護士らが元艦長Xと航海科員を証拠隠滅罪・虚偽公文書作成罪で横浜地検に告発したが、嫌疑不十分で不起訴となっている。なお、事故発生時刻(衝突時刻)の確認の際、艦内のアナログ時計の構造から、艦内記録の混乱を避け時刻を統一する必要があり、速力通信受信簿の「15時40分」を採用したもの。実際には、清書前の「15時38分」が正しかったため、世間の誤解を招く結果となった。海難審判庁は、両者について海難審判を開始した。1989年(平成元年)7月25日、横浜地方海難審判庁は裁決において、なだしお側に主因があったとし、海上自衛隊に対して指導不十分とし安全航行を徹底するよう勧告を出した。指定海難関係人(=被告に相当)である海自・元艦長Xらに二審請求権はないが、海難審判理事所理事官側(=検察側に相当)が裁決を不服として同年8月1日に二審を請求した。翌1990年(平成2年)8月10日、高等海難審判庁は裁決において、なだしおの回避の遅れと、第一富士丸の接近してからの左転、双方に同等の過失があったと判示した。この事件が多くの被害を出したのは、短時間での沈没であったことと、そのため船内にいた人が脱出の機会を失ったこと、また救命胴衣の着用がなく脱出した者も力つきて溺れたことなどが挙げられている。刑事事件として、1990年(平成2年)8月21日、横浜地検が元艦長Xと元船長Yを在宅起訴。海難審判1審に近く、なだしお側に主因があるとした。また、これに先立ち横浜地検は、第一富士丸側の船員手帳の船員法違反(保管義務違反)や船舶安全法違反(定員超過など)について、事故との直接の因果関係がないため、この件についてYを起訴猶予処分とした。1990年(平成2年)9月12日には、海上自衛隊の調査報告書が公表された。内容は、高等海難審判庁の裁決を追認しており、なだしお主因説に反論するかたちとなった。裁判において、X側はヨットAの存在を理由に「二船間での航法規定である横切り船航法は適用できない」とし、海上衝突予防法39条の「船員の常務」(シーマンシップ)を適用し、回避義務はないと主張した。1992年(平成4年)12月10日、横浜地方裁判所(杉山忠雄裁判長)の判決では、海難審判と異なり「横切り船航法」を採用したうえで、避航船であるなだしお側に主因があると認定した。なだしお側の回避行動の遅れ、および、保持船格の第一富士丸側の回避行動の遅れを認め、なだしお元艦長Xに禁錮2年6か月執行猶予4年、第一富士丸元船長Yに禁錮1年6か月執行猶予4年の判決を下した。控訴期限の12月24日、検察・X・Yともに控訴しない方針を固めたため、判決は確定した。これに伴い、自衛隊法第32条1項2号及び2項に基づきXは失職した。また、海難審判で「同等の過失」とされたことを不服とし、元船長Yは処分取り消しを求めて行政訴訟を起こした。1994年(平成6年)2月28日、東京高等裁判所は請求を退けたものの、なだしおに主因があったと認定された。このことについてYは「100%の勝訴」と発言するとともに、犠牲者に謝罪の意を示した。救助された女性(第一富士丸のアルバイト乗員)が事故直後の記者会見にて「なだしおの乗組員は見ているだけだった」等と激しく非難したことが大きく取り上げられた。また、ちとせに乗艦していたフリーカメラマンの男性も、同様の発言をしたと報道された。こうした「証言」をもとに、バッシングが発生し、なだしおが溺者を「見殺しにした」のは船員法における救助義務違反ではないかという論調もあった。ただし後に、女性乗員の発言は事故直後の興奮による誤解であったと、海保長官が複数回にわたり表明している。その後、10月11日に板垣正が参議院内閣委員会で取り上げ、自衛隊員に救助義務違反がなかったことを改めて山田隆英海上保安庁長官に確認した。一方、潜水艦側の非が明らかとされつつある7月29日には、自由民主党の橋本龍太郎幹事長代理は、バッシングに対し自衛隊を擁護する言動について批判している。この事故がきっかけとなって、遊漁船業の適正化に関する法律が制定された。浦賀水道では当時第三海堡が残っていた。戦後、同水道の往来が活発になると海難事故多発の要因として挙げられ、船舶からは撤去が望まれていたが、漁業関係者からは魚礁代わりとして絶好の漁場として存続が望まれていた。この事故の影響で、一時撤去が検討されていたが流れ、結局2000年(平成12年)になって撤去が決定した。また、同年秋に行われた翌1989年度入学の海上保安大学校の受験者数が5年ぶりに増加に転じた。この事故により、存在がクローズアップされたためと推測された。
出典:wikipedia
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