1989年オーストラリアグランプリは、1989年F1世界選手権の第16戦として、1989年11月5日にアデレード市街地コースで開催された。前戦日本グランプリでトップでチェッカーを受けたセナが「失格」と裁定され、一旦はアラン・プロストの年間チャンピオンが決定したが、この裁定に対してマクラーレンが提訴し、その後日本グランプリの勝者(アレッサンドロ・ナニーニ)と年間チャンピオンも「暫定」扱いとなった。その後10月31日にFIAの国際控訴法廷による判決が下された。判決は、セナの失格処分を支持し、さらにセナに10万ドルの罰金と6ヶ月の執行猶予付き出場停止を課す」というものであった。マクラーレン代表のロン・デニスはこの件について民事訴訟を起こすことも示唆する中でレースウィークを迎えた。予選は2日ともドライで行われた。金曜日はプロストが暫定のポールポジションを獲得した。プロストが予選初日にセナを上回ったのは、1989年シーズンでは3度目のことだった。土曜日には気温が上がったためタイムを伸ばすことのできないマシンが多かったが、セナはタイムを1秒以上縮め、タイムを伸ばせなかったプロストを逆転した。昼前より豪雨に見舞われ、決勝は予定より30分遅れて行われることとなった。しかし、スタート時刻になってもドライバーの多くはマシンに収まらず、路面コンディションが危険過ぎるとして、更にスタートを遅らせるよう要望した。最終的にスタートが行われるようになると、プロストは1周だけで戻ると言い残してスタートに臨んだ。スタートでも、後方グリッドのマシンがフォーメーションラップを終える前にグリーンライトが点灯するという混乱もあったが、1周を終える前に約1/3のマシンがスピンした。プロストは、スタート前の言葉通り1周目の終了時にピットに戻り自主的にリタイアした。なお1周目に起きたオニクス・コスワースのJ.J.レートのクラッシュにより、レースは赤旗中断された。午後3時に再スタートが切られることとなったが、プロストは再スタートを拒否し、二度目のスタートには参加しなかった。自らレースを棄権したドライバーはプロストだけだった。マシンが走ると後続の視界をほとんど奪うほどの水しぶきが上がるコンディションの中、ベテランのルネ・アルヌーがコースアウトしリタイアしたことを皮切りに、6周目にはゲルハルト・ベルガーとフィリップ・アリオーが早くも接触しリタイアした。このレースで優勝しないと裁定がどう下ろうと年間チャンピオンになれないセナも、ネルソン・ピケを抜いたところ、ピケの斜め前方を走っていたマーティン・ブランドルに気づかず追突してリタイアした。またそのピケもセナと全く同じ状況の事故を起こし、衝突したピエルカルロ・ギンザーニとともにリタイアした。セナとピケがそれぞれリタイアする中でナイジェル・マンセルもマシンをコントロールできないまま単独コースアウトしリタイアした。さらにその後も雨脚が全く弱らない中でリタイアが続き、ベテランのエディ・チーバーや若手のオリビエ・グレイヤールも単独スピンアウトしてレースを去っていった。ロータス・ジャッドの中嶋悟は、ドライの予選ではマシン性能の低さから同僚のネルソン・ピケとともに下位に沈んだものの、得意のウェットコンディションの中でマシンをうまくコントロールしつつ驚異の19台抜きを見せ、中盤が過ぎたころには4位につけた。さらにその後もマシン性能がはるかに高い3位を走るウィリアムズ・ルノーのリカルド・パトレーゼを、日本人として初めてレース中のファステストラップを記録しつつ10周以上にわたり激しく追い立てたが、パトレーゼの真後ろにつくとエンジンの吸気口から入る水しぶきのせいでミスファイアを起こすため追い抜くには至らず、4位でゴールした。出走台数の過半数が事故ないしスピンアウトでレースを終え、完走台数がわずか8台となる大荒れのレースとなった中で、予選23位からファステストラップを記録しながら追い上げた中嶋のウェットコンディションにおける高いドライビング・テクニックが、各国のメディアやチーム関係者から高い評価を受け、BBCの解説者で辛口コメントで知られるジェームス・ハントからも後に高く称賛された。
出典:wikipedia
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