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二階堂行貞

二階堂 行貞(にかいどう ゆきさだ)二階堂 行貞(にかいどう ゆきさだ、生没年:1269年(文永6年) - 1329年3月3日(嘉暦4年2月2日))は鎌倉幕府の政所執事。二階堂行忠の孫。父は二階堂行宗(ゆきむね)。北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第9代執権の北条貞時より偏諱を受けて行貞と名乗ったものとされる。通称は左衛門尉。山城守、信濃守。行貞の父・二階堂行宗は引付衆まで進んだが、父親の行忠に先立って弘安9年(1286年)に没しており、正応3年(1290年)の行忠の没後は孫の行貞が22歳で政所執事に就任した。その人事は単に家を継いだだけに等しかったが、その頃は弘安8年(1285年)の霜月騒動によって得宗家被官・内管領の平頼綱が実権を握っていた時期にあたる。それから3年後の正応6年(1293年)に北条貞時が平頼綱を討ち(平禅門の乱)、平頼綱の時代の人事を否定し、霜月騒動以前の父・北条時宗の時代への回帰を計る。その煽りを食らったのか、二階堂行貞は同年10月に政所執事の職を罷免される。そしてこれまでは政所執事を出したことのない隠岐流(二階堂行村の系統)から二階堂行藤(ゆきふじ、出羽備中家)が10月19日に政所執事となる。そしてその二階堂行藤が乾元元年(1302年)8月に没したあと、3ヶ月の空白期間をおいて二階堂行貞が再任されるが、この空白の3ヶ月は得宗北条貞時の元での人事の迷走及び信濃流行貞と隠岐流貞藤(さだふじ、行藤の嫡男)の対立の激しさを物語っている。尚、この前年の正安3年(1301年)に行貞は出家している(法名は行暁)。そしてこの二階堂行貞が『吾妻鏡』の編纂者の一人と目されているのだが、行貞の祖父で二階堂行盛の子・行忠の誕生を『吾妻鏡』に書き込んだのが行貞だとするならば、それは単なる自分の先祖の顕彰を越えて、二階堂行藤とその子・時藤の隠岐流に対して、二階堂行光、二階堂行盛から二階堂行忠、そして自分へとつながる政所執事の家系としての正当性を主張するものとして十分な動機が推測される。二階堂行貞は嘉暦4年(1329年)2月2日、61歳で没するまで政所執事を務め、没後その職は嫡子の二階堂貞衡(さだひら)が継いだ。尚、もう一人の息子・二階堂行広(ゆきひろ)の子が鎌倉時代後期に登場する二階堂行光であり、その子孫は六郷氏を称した。

出典:wikipedia

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