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藤原為任

藤原 為任(ふじわら の ためとう)は、平安時代中期の公家。藤原済時の子。右馬助・少納言を経て、父・藤原済時の死後に為任が庇護していた異母妹の娍子が東宮・居貞親王(後の三条天皇)に入内した正暦2年(991年)には従五位下・右少弁であったが、常に嫡男とされた弟の通任よりも昇進が遅れていた。長徳2年(995年)には五位蔵人に任ぜられるが、自己の昇進の遅滞に不満を抱いて朝廷への出仕を停止し、民部大輔の官職にあった寛弘3年(1006年)には、1年以上の不参を理由に除籍されている。三条天皇の即位後、既に天皇との間で四男二女を産んでいた娍子が后妃に立てられると思われていたが、内覧左大臣の藤原道長が娘・妍子を入内させて后妃に立てようと図り、これを阻もうとする。だが、長年正妃的な地位にあり、3人もの親王を儲けた娍子の存在を無視することは道長でも困難であり、漸く娍子を皇后・妍子を中宮とすることで折り合いをつけた。しかし、その後も道長は娍子側に圧迫を加えたらしく、為任が道長を呪詛しているという風説が流れている。長和2年(1013年)に娍子が御所に参内した際には、自邸を里邸として娍子を庇護していた為任は未だ従四位下・皇后宮亮であったことから、前年に従三位・参議に昇進して公卿となっていた通任が仕切った。その後、三条天皇が通任の昇進を働きかけるが、道長は娍子の庇護者は為任であり、通任は偶々その代理をしたに過ぎないことを指摘、もし参内の功労で通任が叙位されれば、為任の功績をもって通任が賞を受けることとなり、「伊賀の人が(大国の格式を持つとされた)伊勢の人と偽るようなものだ(然伊賀人借伊勢人歟)」と天皇の姿勢を批判した。その結果、為任は従四位上に叙せられた。また、藤原実資と結んでその家司的な役割を果たしている。長和3年(1013年)当時最も富裕な国の一つと考えられていた伊予守に任じられた。当時、三条天皇と藤原道長は自己の政治力の拡大のために互いに自派の貴族を受領などに任命しており、皇后宮亮であった為任の伊予守任命も三条天皇の意図があったと考えられている。そして、その年の11月、東宮である敦成親王(後の後一条天皇)の御読書始の御博士役に、外祖父である道長が伊予守の任期を終えたばかりの藤原広業を推挙しようとしたところ、広業の後任である為任が不与解由状を提出したために(本任放還を果たしていない)広業を任命することが出来なくなり、道長は為任を深く恨んだ。その後、三条天皇の退位、娍子所生の敦明親王の皇太子辞退、そして娍子の死などもあり、従四位上伊予守を極位極官として、遅くても万寿年間(1024年-1028年)には出家していたようである。そして、『尊卑分脈』には寛徳2年(1045年)に射殺されたと記されており、晩年の動向及び殺害に至る経緯については明らかでない。

出典:wikipedia

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