安威城(あいじょう)は、大阪府茨木市安威にあった日本の城。安威川西岸の丘陵に築かれた山城で、『大阪府全志』によると東西180m×南北270mの規模があったと思われ、『東摂城址図誌』によると内郭、本丸跡の中心部には「御殿台」という土壇があったとの記載が見受けられるが、現在は宅地化されわずかに北東に土塁跡が見受けられる。古代、この周辺は藍(アイ)の名を擁した中臣藍連の一族がいたようだが、再び歴史にあらわすのは、16世紀初めに摂津国守護細川氏から安威領を安堵された安威右近太夫という人物で、おそらくこの頃に安威弥四郎によって安威城が築城されたという説もある。また別説として、土豪安威氏とこの地域の結びつきの古さを考えるならば、本格的な城郭ではなかったものの、居館としてもっと早くから存在していたのではないかという説もある。波多野稙通の反乱に端を発した争いは、細川高国と細川晴元の争いまで発展していった。波多野稙通は山崎城に襲いかかり、山崎城に詰めていた薬師寺国長は高槻城に逃亡してしまった。この時、細川高国方についていた、安威城をはじめ、芥川山城、太田城、 茨木城、 福井城 、三宅城の諸城は次々と陥落していき、その後有名な桂川原の戦いへと発展していく。桂川原の戦いで細川高国は大敗し、今度は細川晴元についたようであるが、三好長慶の台頭に伴い、安威弥四郎も次第に三好長慶へ属していったようで、江口の戦いでは三好長慶方の武将としてその名が見える。最後の城主は安威弥四郎の子、安威了佐で豊臣秀吉に仕え信頼も厚かったようで、天正14年(1586年)に中川清秀が茨木城に移り、安威城は廃城となったと思われていたが、昭和58年7月に安威氏の系譜が発見され、安威了佐の嫡男、安威勝宗が最後の城主となったようで、中川清秀の嫡男、中川秀成が岡藩に転封された時に、安威勝宗も行動をともにし、安威の地からは姿を消す。安威城の城郭は外郭と内郭(100m×70m)からなる縄張りと思われている。安威城はかつて大手門があった場所より進入し、ここから城内の中心部へ進入していく。この大手門の両脇に、農業用の水路が確保されているが、これが外郭と城外を隔てる堀のような役割を果たしていたのではないかと指摘されているが詳細については不明である。城内は完全に宅地化されており、城跡をしのばされるものは少ないが、北東に150mの土塁跡、また南側にも見受けられるが北東の土塁ほど保存状態はよくない。それ以外に南東に円形の城井戸と伝わるものがあり、現在も用水として使用されている。茨木市立安威小学校は外郭の一部に建ち、西限ではないかと思われている。
出典:wikipedia
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