LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

立命館大学

「立命館」の由来は、孟子「盡心章句(じんしんしょうく)」にある「殀寿貳(ようじゅたが)わず、身を修めて以て之を俟(ま)つは、命を立つる所以(ゆえん)なり」(人間の寿命は天命によって決められており、修養に努めてその天命を待つのが人間の本分である)から採られた。建学の精神は「自由と清新」である。教学理念は「平和と民主主義」である。第二次世界大戦前から戦中に掛けて、立命館大学は世相を反映して国家主義的傾向が強まっていった。一方で滝川事件(立命館大学では「京大事件」と呼称)の際には同事件に連座して京都帝国大学を退官した教員を受け入れていた。終戦直後、同事件に連座した、京都大学法学部教授の末川博を総長へ招聘した。その末川を中心に大学の改革へ乗り出す。憲法と教育基本法を尊重して「平和と民主主義」を守ろうという末川の思想が中心となって、立命館大学は「民主的な学園運営」「自主的学習の尊重」の2本柱によって構成され、以下に記載する取り組みが現在の立命館大学に至るまで実施され続けている。末川が立命館大学に与えた影響は極めて大きく、これらの功績を讃えて、同大学では末川を名誉総長として顕彰している。また、末川が構成した思想を「立命館民主主義」と呼んでいる。「あかき血潮 胸に満ちて 若人真理の 泉を汲みつ」 立命館大学には最高の協議機関である「立命館大学全学協議会」を設置している。1948年9月25日に名誉総長の末川博によって創設された。参加者は常任理事会、学友会、院生協議会連合会、教職員組合および生活協同組合(オブザーバー)の各代表となっている。特に学生や大学院生の代表を大学自治の重要な担い手として位置づけ、正式な構成員としている点が特徴的であり、立命館大学の掲げる「全構成員自治」の要となる民主的制度である。この全学協議会では、学園の重要な課題である長期計画や教学課題、学生生活課題、学費課題など正課や課外を問わず、大学運営や学園創造に関するすべての重要な事項について協議をし、学園の構想に反映させ教育やキャンパス環境の高度化を図っている。通年は一般には非公開で「全学協議会代表者会議」が行われているが、4年に一度の学費改定方式の見直し議論の際は、「公開全学協議会」の形で開催される。公開全学協議会には、立命館に在籍する学生および教職員が傍聴することできる。最近では、2015年に開催されたとされている。(諸事情で延期になった可能性も高いとされている)1869年、 西園寺公望は私塾立命館を創設した。しかし、京都府庁(太政官留守官)の差留命令により1年弱で閉鎖された。西園寺の秘書官であった中川小十郎は、西園寺の意志を継ぎ、1900年に向学心を持つ勤労青年のために勉学の機会を与えるとともに京都帝国大学教員の経済支援を兼ねた夜間学校として京都法政学校を設立し、上京区東三本木丸太町にあった料亭清輝楼(吉田屋の近隣にあった)を仮の校舎とした。他方、1889年に、京都法学校(きょうとほうがっこう)が、京都府京都市下京区寺町通四条下ル大雲院内に設立されている。これは、法律学および経済学を教授することを目的に設立された私立学校で、校主には司法省学校卒業後、京都始審裁判所に勤務した山崎恵純が就任。この他、名誉員に京都府知事、大審院評定官、京都始審裁判所所長、同検事、京都府警部長らが就いた。しかし、その後、入学希望者の増加に対応しきれなくなり、京都法政学校に事実上引き継がれた。山崎恵純は引き続き京都法政学校の教授を務めた。現在の立命館大学では、京都法政学校が設立された1900年を創立としており、私塾立命館が開設された1869年を立命館の創始としている。私塾立命館の閉鎖をたいそう残念に思っていた西園寺公望は、同私塾の復興を誓う。その意志を継いだのが西園寺の秘書官、中川小十郎だった。自分の意志を継いだ中川に西園寺は協力を惜しまず、自らの政治的人脈を生かし、様々な形での支援を行った。西園寺の庶弟末弘威麿が学園幹事に就任、同じく実弟の住友財閥当主徳大寺隆麿(住友友純)は大口の寄付を行った。また西園寺家家紋である「左三つ巴」の旗を立命館学園が使用することを許可しており実際に使用されていた。また大学昇格に必要な書籍を寄付するなど、ハードウェア的な支援も行っている。また、愛新覚羅溥儀は立命館に巨額の寄付を行っている(衣笠キャンパスは溥儀の寄付により作られた)が、これも西園寺の人脈によるものである。中川が「立命館」の名称を用いる事を西園寺に申し出た際には『立命館』の名称と精神の継承(立命館の再興)を大層喜び『立命館と由緒』の大扁額を与えた。後に西園寺は「余が建設せる立命館の名称と精神を継承せる貴学」と現在の立命館大学の事を述べており、彼の作った立命館が再興し、受け継がれている事を喜んだ(原文:「明治ノ初メニ於イテ余ガ建設セル立命館ノ名称ト精神ヲ継承セル貴学ガ益々発展シテ国家ノ進運ニ貢献スルコト大ナルベキヲ祈ル」(1935年(昭和10年))。西園寺は専門学校令によって創立した京都法政大学が大学令による大学への昇格条件を満たすために多数の書籍を寄付している。これらの書籍は、現在も「西園寺文庫」として保存されている。なお、一回目の寄贈は1925年5月に行われ、英仏書187冊であった。その後、1930年10月16日に和漢書約300冊、1938年6月には西園寺家伝来の和綴本739部881冊の寄贈が為された。この和綴書には、宮中儀式、有職故実関係、改元記録、和歌関係などの貴重文書が含まれている。そして1940年5月に行われた最後の寄贈は和漢書6,671冊にもおよび、西園寺が特に愛読していたと思われるものが大量に含まれているのが特徴である。1932年、83歳になった西園寺は人生最後の京都訪問を行う。その際、立命館大学広小路校地を訪問先に選んだ。9月22日の朝、京都市上京区にある立命館大学広小路学舎を訪れた西園寺は、校舎ホールに飾ってある自筆の『立命館』の扁額に気が付くとしばらく目を留めたといわれている。西園寺の私塾との間に学校組織としての連続性はないものの、こうした状況から西園寺が没した1940年に財団法人立命館は、西園寺を「学祖」と取り決めた。そのため、西園寺家との関係は、学校法人立命館のみならず、立命館大学とも続いており、大学の行事に西園寺家の人々が出席している。--------------以上が学校法人立命館の系譜対する前史1931年制定。作詞は明本京静、作曲は近衛秀麿による。全2番構成だったが、内容が国家主義的とも受け取れるものであった2番目の歌詞は、戦後歌うことが憚かられるようになった(1990年5月25日の理事会で正式に廃止された)。現在は1番目を2回繰り返して歌う。2007年にコミュニケーションマーク「R」が制定されたのと同時に、同学のスローガン・タグラインとして、「未来を生み出す人になる。」が制定された。これにあわせて毎年、川口清史現総長と同学の卒業生が京都の名所旧跡で語り合う、と言う内容のイメージ広告が、首都圏・関西圏の鉄道ターミナル駅や新聞に掲載された。2013年1月からは、「Beyond Borders ~ 超えていけ。RITSUMEIKAN」として、同学の活動全般(教育活動、産学連携、社会貢献、体育会・文化会各部、サークル等)を紹介する内容のイメージ広告が展開されている。 現在は夜間のみで卒業する学生を対象とした学習環境は提供されていない。過去には法学部・文学部・経済学部・経営学部・理工学部・産業社会学部の各学部に、1995年までII部(二部・夜間部)が存在した。立命館大学II部は他大学と異なり、入学試験の受験資格が本来の目的である勤労学生もしくは社会人に限定され、さらに、入学後のII部からI部へ移る制度も設けていなかった。その後1996年よりI部・II部の区分を廃止し、昼間主コース・夜間主コースからなる「昼夜開講制」に移行した。更には1999年にBKCで先行開始された新昼夜開講制の導入により、実質的な昼夜コース枠組みの撤廃が行われた。そして2007年1月には産業社会学部の夜間主コースで最終講義が行われ、立命館大学の源流である「夜学」が107年の歴史を閉じた。立命館大学は、「国際インスティテュート」(2000年度に設置)と「文理総合インスティテュート」(1998年度に設置)を設けて学部横断的な教育を展開してきたが、専門性の習得や入試募集の単位の細分化など、改善すべき課題が生じてきたとして、現在はすべて募集を停止している。ここでは、学生の学籍は所属する学部学科にあるが、実際には卒業の基準や必修も全てインスティテュートの枠組みの中で行われることになる。こうした制度のため、卒業した学生の肩書きは「○○学部○○学科○○インスティテュート卒業」となる。インスティテュート所属生の選抜は入学試験で行われた。また、文学部も1996年度に文学部の学生向けに「人文総合科学インスティテュート」を設置していたが、2002年度に従来の人文総合科学インスティテュートを学際プログラムと改称した上で、総合プログラムと国際プログラムを新設し、この3プログラムを新たな人文総合科学インスティテュートとして再編した。2009年度には、総合プログラムを京都学プログラムと言語コミュニケーションプログラムの2プログラムへと再編したが、2012年度の「学域・専攻制度」の導入に伴い廃止となった立命館大学蔵書数(附属研究機関含む/2009年度末時点)は、2,750,384冊(和漢書1,794,745冊、洋書855,639冊)。APUライブラリー(立命館アジア太平洋大学)蔵書数は含まない。なお、衣笠図書館は、旧第一体育館跡に2016年春に新築移転する予定である。西園寺文庫は、図書館内にある文庫。西園寺家伝来の貴重な資料のほか、西園寺公望自身が収集した資料を含む。総冊数13,072。西園寺文庫の資料は、西園寺が生前4回に渡って立命館大学に寄贈した資料を中心に構成されており、その前身は1938年同校に設置された「西園寺公文庫」である。一回目の寄贈は1925年5月に行われたが、これは立命館大学(旧制)が大学昇格条件を満たすために整備した立命館文庫に対して記念寄贈されたもので、英仏書187冊であった。その後、1930年10月16日に和漢書約300冊、1938年6月には西園寺家伝来の和綴本739部881冊の寄贈が為された。この和綴書には、宮中儀式、有職故実関係、改元記録、和歌関係などの貴重文書が含まれている。そして最後、すなわち四回目の寄贈は1940年(昭和15年)5月に行われている。この最後の寄贈資料は和漢書6,671冊にもおよび、西園寺公が特に愛読していたと思われるものが大量に含まれているのが特徴とされる。21世紀COEプログラムとして、4件のプロジェクトが採択されている。グローバルCOEプログラムとして、3件のプロジェクトが採択されている。立命館土曜講座は、大学の社会的開放および生涯教育への対応として実施している無料公開講座。当時の学長であった末川が、提唱して開講されたもので、第一回目の講座は1946年3月31日に実施された。また、これに関連して、1962年から1965年にかけて、読売テレビと共同して『テレビ大学講座』を制作していた。現在は、衣笠キャンパスで実施している土曜講座のほかに、びわこ・くさつキャンパスで『立命館びわこ講座』、学校法人立命館の学校や事務所なども使用して公開講座が開催されている。海外留学に関する教育プログラムが用意されている。詳細については他大学との協定に関する説明を多数含むため、留学協定を参照。立命館大学には、学園祭などのイベントやサークル活動の他、クラス援助活動や大学との交渉といった自治活動などを統括する組織「立命館大学学友会」がある。全員加盟制をとっており、学生は学友会に加盟することで立命館大学の掲げる「全構成員自治」の一員となり、その代表は「全学協議会」などで教学やキャンパス高度化、学生生活、学費、学園の事業など大学の運営に関する議論に参加している。同組織には中央委員会や中央常任委員会の他、全学自治会(BKC自治会・各学部自治会・学術部・学芸総部を含む)、中央事業団体(応援団・放送局・新聞社・体育会)が存在する。体育会や学術部・学芸総部に属する公認団体や同好会、任意団体の他にも、中央任意団体、登録団体といったサークルが存在する。このような課外活動の主な拠点は、学生会館(衣笠)およびセントラルアーク(BKC)、リンクスクエア(BKC)、スチューデントラウンジ(OIC)となる。また、体育会所属団体は各部の練習グラウンドにあるクラブハウスが活動の中心となる。立命館大学学友会中央事務局通称:中央常任委員会事務局組織体系:調査企画部・財務部学友会が中心となって運営する立命館大学学園祭実行委員会の主催による「立命館大学学園祭」が例年11月に行われている。従来はびわこ・くさつキャンパス (BKC) で2日間、衣笠キャンパスで2日間の計4日間開催されていたが、3キャンパスとなった2015年は各キャンパスで1日ずつの計3日間となり、1週間毎の土曜日か日曜日に開催される。2016年度では1キャンパスのみ1日での開催予定となっている。4日開催の時の来場者数は、のべ約10万人と公表されている。学生文化の集大成を発表する場として、各課外活動団体やサークルによる一般企画や学園祭実行委員会による実行委員会企画(模擬店、フリーマーケット、野外ステージ企画、タレントによるコンサートなど)などが催される。学園祭の運営は立命館大学学園祭実行委員会によって行われる。実行委員会は、中央常任委員会の責任の下、中央委員会から予算の決定を含めた全ての権限を移譲される。ある程度の企画および立案は、学園祭事務局がほぼ企画・立案し実行委員会でその企画意図や立案趣旨、予算などの審議が行われる。学園祭の理念に相応しい企画であるか、学友会費を支弁するに相応しいかなどの視点から幾度も審議が重ねられ、最終的に実施の可否について参加委員の多数決にて結論を出す。実行委員会は、学園祭実行委員長、学園祭副実行委員長(衣笠担当)、学園祭副実行委員長(BKC担当)、学園祭副実行委員長(OIC担当)、全学自治会、BKC自治会、各学部自治会、学術部、学芸総部、体育会、新聞社、放送局、応援団、中央事務局サークル担当及びBKC自治会サークル連合といった学友会中央パートにより構成されている。また、オブザーバー・実行委員質問の答弁者として、衣笠学園祭事務局、OIC学園祭事務局、BKC学園祭事務局、実行委員会事務局調査企画部及び実行委員会事務局財務部の各担当者の出席が認められている。実行委員長は年度により異なり、中央常任委員長や学園振興委員長、中央事務局長などが務める。各キャンパス内のみで終結する企画については、キャンパス別会議が開かれ、審議が行われる。また形式上、実行委員会の委員メンバーには大学教職員からの委員は入っておらず、大学職員と緊密に連携を取りつつも、ほぼ学生による自治・創造性に任された運営が行われている。実行委員会の実務を担う組織として、衣笠学園祭事務局(中央事務局特別事業部衣笠支局)、OIC学園祭事務局(同中央事務局特別事業部OIC支局)およびBKC学園祭事務局(BKC自治会事務局イベント事業部)が設けられる。学友会が中心となって運営する立命館大学新歓実行委員会の主催による「新歓祭典」が、例年4月下旬にびわこ・くさつキャンパス(BKC)で1日間開催される。運営体制については、学園祭に準ずるかたちとなる。新入生を歓迎する祭典として、各課外活動団体やサークルによる企画や新歓実行委員会企画、新歓事務局による模擬店、野外ステージ企画など、様々な催しが行われる。衣笠・BKC・OIC各キャンパスの全新入生の参加が推奨されており、歓迎の対象となる新入生が自ら小規模演習の各クラスから模擬店を出店することが恒例となっている。大学創立当初より、文武両道の精神からスポーツには力を入れていたが、衣笠キャンパスの産業社会学部に「スポーツ学科(スポーツ社会)」が設けられた後、2010年には、びわこ・くさつキャンパスに「スポーツ健康科学部」が設けられたことにより、運動に長けた選手が入学し、アメリカンフットボールや女子駅伝等、大学上げての強化が成功し、各部、実績を挙げている。文化系のクラブ活動も盛んであり、特に1982年に設立した立命館大学クイズソサエティーでは、現役生やOB/OGを問わず、同会出身の解答者がテレビのクイズ番組で優秀な成績を残す者も多く存在するなど、極めてレベルの高いクイズクラブであり、私立大学の中ではトップ級のクイズ研究会である。また、1989年より年に1回、概ね毎年秋に、立命館大学クイズソサエティーの最大のライバルで、また国立大学のクイズ研究会ではトップ級である、名古屋大学のクイズクラブである名古屋大学クイズ研究会との対抗戦「名立戦」が、国立大学と私立大学との域を超えて開催されている。京都市北区等持院北町56-1に所在する。1224年(元仁元年)、西園寺公経が西園寺と北山第(山荘)を建てた。14世紀末、室町幕府三代将軍・足利義満が、西園寺家から北山第を譲り受けたが、義満の北山第は、西は衣笠山、東は天神川、南は衣笠総門町あたりまで含む広大な敷地であった。北山第が足利義満に譲られた後、西園寺家は再び近くに邸宅を構え、それは15世紀半ばまで衣笠山南麓に存在したとされる。1939年(昭和14年)、立命館大学が現在の衣笠キャンパスの開発に着手したところ、地下約90センチメートル(三尺)の位置から約300年前のものと思われる多数の屋根瓦片が発掘され、屋根瓦には西園寺家の紋章が確認された。さらなる調査の結果、太政大臣・西園寺公経邸のものと推定されるに至ったことから、現在の衣笠キャンパス一帯には、西園寺家の邸宅が建っていたと考えられている, , , 。幕末の頃、現在の「衣笠キャンパス」およびその周辺には薩摩藩の藩兵調練場(小松原調練場)、弾薬庫、陣屋、勤番屋敷などを置く広大な緑地が広がっていた。明治維新の「鳥羽・伏見の戦い」では、この調練場の弾薬庫から大量の弾薬等が運び出されたと記録されている。1939年(昭和14年)、満州国皇帝の愛新覚羅溥儀が立命館に寄付した約50万円のうち20万円で衣笠山の麓に6万坪の土地を購入し、理工系学科の学舎を建設したのが現在の「衣笠キャンパス」の始まりである。この寄付金の残額で学生向けの奨学金の基金も創設された, 。等持院に隣接していることから、かつては「等持院学舎」と呼ばれていた。昭和20年代にはプロ野球「松竹ロビンス」が本拠としていた衣笠球場が現在の中央広場付近にあり、1954年まで「洋松ロビンス」の準本拠地球場として使用されていた。設立当初より文系学部を「広小路学舎(中京区)」に、理工系学部を「等持院学舎(現・衣笠)」に置くという棲み分けがなされていたが、戦後急速に増え続ける入学志願者に対応すべく、京都市右京区西院方面に約6万坪の土地を購入し教養学部を移転させるという「緑の学園」構想が持ち上がった。この構想は1957年(昭和32年)12月10日の学校法人立命館理事会で「現状では広小路、等持院を中心に充実をはかるべきである」という結論に達したため実現こそしなかったが、文系理系全学部を「衣笠キャンパス」に集約させるというその後の「衣笠一拠点政策」の契機となった。衣笠一拠点化は、1981年(昭和56年)に実現している。しかし、更なる学園拡大の流れにより、衣笠キャンパスでは手狭となったことから衣笠一拠点化は10年程度で終息し、複数キャンパス体制になっている。現在の「衣笠キャンパス」周辺は、金閣寺、龍安寺、仁和寺、等持院などが点在する京都屈指の観光名所として知られる。キャンパス北側にはこれら名刹を結ぶ観光道路「きぬかけの路」が通る。中でも隣接する等持院の墓地には、室町幕府将軍の足利尊氏、足利義量および足利義勝、映画監督の牧野省三や衣笠貞之助、画家・山元春挙、木島桜谷、役者・尾上松之助、学園創立者・中川小十郎が眠っている。衣笠キャンパスから北へ徒歩10分程度、金閣寺西部には西園寺記念館がある。飛び地の形で立地しているため「氷室キャンパス」と俗称で呼ばれることがあるが、これは公式なものではなく、衣笠キャンパスの一部である。付近一帯は1224年(元仁元年)に藤原公経が「西園寺」を建立した場所で、寺は西園寺家の家名の由来とされてことから立命館学園とはとりわけ縁の深い場所である。BKC(びわこ・くさつキャンパス)と並べる必要がある際は、KIC(読み:キック)と略されることがある。明治二年(一八六九)秋九月、私邸に『立命館』を創始した西園寺公望は、長期にわたる海外生活の経験から国際感覚に優れ、先見性に富み、近代日本の政局に深くかかわってきた。ことに思想の自由と社会の平等を尊び、常に「世界の中の日本」を主張してやまなかった。かかる学祖の思想は、本学の建学思想として教学理念の根底をなし、今日に至るまで脈々と受け継がれている。昭和六三年(一九八八)春三月、西園寺家の発祥地である北山殿の址、すなわち現鹿苑寺(金閣寺)の傍に、国際社会に活躍しうる人材を養成するため、新に学舎を建設し、『西園寺記念館』と名付けることにした。ここに掲げる『禮記』から引用された墨蹟は、学祖が大正四年(一九一五)須磨逗留の折に作られており、学を志す人々に学問の深さを諭したものである。新しい学舎において真理を探究し、幅広い教養をもち、調和のとれた国際人を目指して自己研磨に励む諸君に、このことばを送りたい。立命館総長 大学長 谷岡武雄京都市中京区西ノ京朱雀町1に所在する。2006年9月開設。京都法政学校創設者である中川小十郎の姓を冠した中川会館の一棟で構成され、大学本部(学校法人立命館の本部機能も担う)も衣笠キャンパスの旧中川会館から移転した。平安京の朱雀大路にあたる千本通に面し、付近に朱雀院跡があること、朱雀第一学区に立地することが、キャンパス名の由来である。学校法人立命館が、学園全体の総合的な連携を機能的かつ高度に遂行できる施設を目的に計画して建設した建物で、専門職大学院(法務研究科、経営管理研究科、公務研究科)、校友会本部などとともに学園学校法人本部も入居している。中川会館の名称は、立命館大学の前身「京都法政学校」を創立した中川小十郎に由来する。現在の中川会館は3代目で、初代中川会館は、1936(昭和11)年に学園創立35周年と中川小十郎の長寿を記念して当時の広小路学舎に建設されたものである。1979(昭和54)年には、広小路学舎から衣笠キャンパスへの大学全面移転事業にともない、2代目の中川会館が衣笠キャンパスに竣工された。2代目会館は、2006(平成18)年9月まで主に学園本部機能を担う管理棟として利用されていたが、今回の3代目中川会館の竣工でその役割を終えた。現在、2代目中川会館は「至徳館」と名称を変更し、キャンパスインフォメーションセンター、会議室、生協購買部などが入る複合施設として機能している。近代京都建築を手本に設計され、外壁には輸入英国製煉瓦、屋根部分は緑青銅版、白壁部分はテラコッタ、建物土台部分には御影石が使用されている。また建物正面(東側)と裏側(西側)の壁部分には、白いデザイン陶板が貼られている。陶板のデザインは、建物正面側が立命館の校章が、建物裏側には「Rits(立命館シンボルマーク:商標登録番号: 4393342および4393343)」が彫刻されている。会館正面(千本通側)の建物左上部には、学園コミュニケーションマーク「R」のロゴが2008年4月より掲示されている。それ以前はシンボルマーク「Rits」が掲示されていたが改修された。会館南東部の屋上には、会館のシンボルとして「塔屋」が設けられている。塔の四面には、工芸ガラスを利用してデザインされた四神の図柄がはめ込まれており、北面に玄武、南面に朱雀、東面に青龍、西面に白虎が描かれ、夜にはこれらがライトアップされる。1階正面玄関を入ると、創立者・中川小十郎の胸像に迎えられる。胸像の背後には、創立以来立命館学園を援助するとともに、学園の精神と名称を与えたことなどから学園の「学祖」として敬仰される西園寺公望公が揮毫した「立命館」の扁額のレプリカが掲げられている。現在、オリジナルの扁額は総長室に飾られているが、これは1905(明治38)年、京都法政学校が「立命館」の名称を継承することを許した西園寺公望から寄贈されたもので、「立命館」の三文字が力強く書かれている。1階正面奥には「メモリアルホール」と呼ばれる空間があり、立命館学園の発展の歴史を伝えるパネルや映像を見ることができる。ホールには、学祖・西園寺公望の石膏像(直径約41センチ)も飾られている。これは、彫刻家・武石弘三郎が大正時代に手がけた西園寺公望の銅像をもとに複製されたものである。この銅像のオリジナルはもともと東京都神田駿河台の駿河台邸(西園寺邸)にあったが、関東大震災で破損してしまったものである。その後西園寺側近が破片から復元したものが静岡県清水市の清見寺で保管されていたことが判明。立命館がこれをもとに再度複製したものである。西園寺は自身の銅像・彫刻を残すことを嫌ったため、完全な立体像としては清見寺のものを除き、これ以外に残っていないとされる。なお、衣笠キャンパス西園寺記念館の1階ホールにも、杉村尚が作製した西園寺のレリーフ塑像が飾られてあるが、これはほぼ平面に近い。4階、5階部には全472席の大ホールがあり、シンポジウムやイベントに利用されている。初代中川会館は、1935年に立命館学園創立35周年と学園創設者・中川小十郎の長寿を祝って広小路校地に建設された。もともと立命館大学校友会評議員会は、盛大な記念祝賀会や中川小十郎の銅像建設などを予定していた。これを知った中川から、銅像建設や祝賀会に資金をまわすより、学園の施設を充実してほしいと要望があり、1935年1月12日の校友大会で「中川会館」の建設が決定された。中川会館の建設費用は寄付金によって賄われ、教職員、学生・生徒、学園縁故者の協力で総額73,970円81銭が集まった。会館は1936年5月に着工され、同年12月13日に竣工。鉄筋三階建で陸屋根造り、モルタル吹き付けの白亜の外壁に、腰は人造石洗出で仕上げられた。建坪は85坪・280m²(延300坪・990m²)で、地階は学生控室・食堂にあてられ、存心館に通じる地下通路があった。1階部分は出版部、職員室、学生研究室、2階は学長室、法学部研究室、文学科研究室、予科研究室、高等商業科研究室、3階は総長公室、校友集会室、特別講義室、応接室にあてられた。記念室には久邇宮邦彦王殿下から中川総長に下賜された自作の詩の御書と銅製花瓶、西園寺公望から寄贈された書、白川義則大将寄贈の天壌無窮の銘ある花瓶、総長が明治天皇御聖像に奉献された靖広作の神剣や師の御霊が陳列されたほか尾竹竹坡画伯の風俗画、大理石でできた西園寺公の肖像などが飾られていた。竣工式前日に西園寺公望から送られた「南天」、「山梔子」各30株ずつが会館玄関脇などに植樹された。二代目の中川会館は、1979年に衣笠キャンパスに竣工。同年、広小路校地から学園本部が移転した。地上4階、地下1階建で延面積は6,079.13m。総長室や学園本部などが入る学園管理棟として機能した。地階には生協購買部が入居していた。2006年、朱雀キャンパスに新・中川会館が完成すると同時に学園本部機能が移転し、旧中川会館は映像学部の講義などに利用されていた。その後、名称を「至徳館」と変更し、現在に至っている。滋賀県草津市野路東1-1-1に所在する。滋賀県が整備を進める「びわこ文化公園都市」の一角に、1994年に開設されたキャンパス。愛称は"BKC"。延面積は611,078.32mの敷地は、滋賀県から無償で提供された。キャンパス内に設置されたクインススタジアムという陸上競技場の地下には木瓜原遺跡が完全保存されている。なお、クインス (quince) とは瓜のことで、木瓜原という遺跡の名称から採られた。びわこ・くさつキャンパスの西隣には、広さ延面積は45,590mの運動施設「BKCグリーンフィールド」がある。3階建てのクラブハウス、全面人工芝のラグビー競技場、アメリカンフットボール専用グラウンドなどがある。近江鉄道バスが乗り入れており、大津営業所運営路線では学生専用のIC乗車券が使用出来る。また草津田上インターチェンジに隣接する利便性から、びわこ・くさつキャンパスとJR琵琶湖線大津駅を結ぶ直通短距離高速バスが近江鉄道バスにより、同キャンパスと京阪本線中書島駅を結ぶ直通短距離路線バス「立命館大学 (BKC) 線」が京都京阪バスにより(立命館では「高速バス」としている。かつては京阪京都交通も運行)運行されている。また、かつては同キャンパスと飛島グリーンヒルを経由して近鉄京都線・京都市営地下鉄烏丸線竹田駅及び京都駅を結ぶ高速バス「MKハートシャトル」がエムケイ観光バス(MKグループ)により運行されていた。2004年にはBKCの開学10周年と産業社会学部創立40周年、および倉木麻衣の歌手活動5周年を記念して産業社会学部の4回生、倉木麻衣による「Rits倉木麻衣メモリアルライブ2004」が行われ、約2万5000人を集めた。セントラルアーク(英語表記:CENTRAL ARC)は、学生交流施設。2005年2月竣工。竣工式は2005年3月23日。地上4階建、延面積4,935.02m。学生の学びと成長を促進する施設として「交流」「伸長」「発信」をテーマに設定しており、ドリームクロスラウンジ、ステージ、サテライトブース、表現のジャングルジム、アカデミックワークショップ、作業ラボ、作業テラス、コンセプトルーム、プレゼンテーションスペース、ミーティングルーム、練習ブース、セントラルアクトオフィス(BKC自治会)、学生オフィス、スポーツ強化センターなどがある。2000年12月6日に開催された「第2回BKC自治会代表委員会総会」にて、コンセプトを高度化した「学生交流施設」の建設を短中期的課題として要望する決議をしたのが建設議論の始まり。「学生交流施設」とは、既存の学生会館とは違う、正課・課外を問わない学生の交流の場を目指した新しいコンセプトの施設をイメージして名づけられた。2001年には要望が具体化され、2003年度には学生署名約1万2000筆が集まった。これを受けて、2003年10月8日の立命館大学全学協議会にて建設が正式に決定した。名称は公募され、919件の応募の中から猪狩大輔の作品が選ばれた。大学の中心(セントラル)に建つ、弧(アーク)型の建物であることに由来する。2008年6月20日、サンドイッチ・チェーン「サブウェイ」が1階にオープンした。エポック立命21(えぽっくりつめいつーわん、英語表記:EPOCH RITSUMEI 21)は、多機能型セミナーハウス。着工は2000年8月1日で、竣工は2001年4月30日。鉄筋コンクリート造地上4階建(一部鉄骨・鉄骨鉄筋コンクリート造)。建築面積2,388.51m、延床面積6,851.70m。延面積6,019.92m。会議室、宿泊室、父母教育後援会記念エポックホール、交流室、スポーツハウス、茶室(蓬窓庵)、屋上庭園、ミーティングルーム、食堂などがある。また琵琶湖ホテルが運営するフレンチレストラン「EPOCHラウンジ」は、学生・教職員の他、一般客にも開放されている。席数はラウンジ43席、テラス16席。レストラン利用者向けに18台分の駐車場が用意されている。セミナーハウス機能を持つ施設の建設は、びわこ・くさつキャンパス開設当初の1994年より学生がその必要性をあげていた。1999年には学生による大規模な運動が行われたこともあり、建設を求める声が高まりを見せ、1999年秋に行われた建設を求める学生署名には実質7日間で9663筆が集まった。これを受け、1999年10月6日に開催された全学協議会では、全学的な議論を経て建設が正式に決定された。建設にあたっては、設計当初より大学側と学生の代表であるBKC自治会との議論を重ねられ、当初の宿泊機能に加えてホール、茶室、スポーツハウスなど、当初計画に含まれていなかった機能が備えられることとなり、学生の声が取り入れられる形での建設となった。名称は、立命館大学そしてBKCの新しい時代 ― EPOCH ― を創造する一歩として、5つのコンセプト、Exchange(交流)・Personality(個性)・Oasis(いこい)・Co-learning(学びあい)・Humanity(人間らしさ)を追求できる新時代のセミナーハウスを目指して、当時経営学部3回生の庄山由多加が名づけた。大阪府茨木市岩倉町2-150に所在する。2010年8月27日、大阪府茨木市岩倉町1番地のサッポロビール大阪工場跡地に新キャンパスをつくる構想があると報道された。その後構想があることを認め、2010年11月12日に学校法人立命館が同用地の取得と新キャンパス開設することを理事会で決定したと公式に発表した。新キャンパスの面積は12万1,891平方メートルで、2015年4月に開設された。キャンパスの名称は大阪いばらきキャンパスとなり、略称は「OIC」である。びわこ・くさつキャンパスから経営学部と経営学研究科および、テクノロジー・マネジメント研究科が、衣笠キャンパスから政策科学部と政策科学研究科が、立命館朱雀キャンパスから経営管理研究科がOICへ移転し、総合心理学部(仮称)が2016年度に設置予定である。広小路学舎は京都法政学校設立当初の1901年(明治34年)に設置された京都市上京区広小路通河原町西入にあったキャンパス。当初の敷地面積は2,200m²で、衣笠キャンパスに全面移転する1981年(昭和56年)頃の総面積は40,000m²であった。校舎の一部(尽心館、存心館、養性館)は『孟子』尽心篇・首章の次の一文に拠って命名された。選者は立命館長・中川小十郎の委託を受けた講師の鷹取田一郎であった。全盛期には学園本部のほか、法学部、経済学部、文学部、経営学部、産業社会学部と各二部と各研究科が置かれたが、キャンパス狭隘化のため、学園の拡大政策のもと衣笠キャンパスへの全学統合が計画された。1965年(昭和40年)の経済・経営両学部移転を皮切りに順次各学部や研究科が移転し、1981年(昭和56年)には最後に残った法学部が移転し全学が衣笠に移転完了し、「広小路学舎閉校祭典」が開催された。広小路学舎は、1981年(昭和56年)3月末日をもって「京都府土地開発公社」に売却された。現在跡地には「立命館学園発祥の地」記念碑が建っている。「広小路学舎閉校祭典」で当時の総長・天野和夫は次のように挨拶している。広小路学舎にあった施設は以下の通りである。短期留学生用の学生寮が「衣笠キャンパス」近くに2棟ある。主に中長期留学生用の学生寮が「びわこくさつキャンパス」隣接地に1棟ある。短期留学生用の寮は、すべて一人部屋(ベッド・デスク備え付け)で、トイレ・バス完備。インターネット対応。共用のキッチン、ラウンジルーム、洗濯機・乾燥機、コンピュータールームなどを備える。約20の国、地域から集まる留学生が、BUDDY(バディ)と呼ばれる日本人学生ヘルパー、学校教員らとともに居住している。立命館大学は、合計11の学寮を持っていた。その後、入寮希望者の減少に歯止めがかからず、1987年(昭和62年)に学寮の全廃を決定。1991年(平成3年)3月をもって全廃された, 。2007年に立命館大学は、同学および立命館アジア太平洋大学の入試情報提供等のサービスを行う拠点として、「立命館プラザ」を設置した。地元京都・関西だけでなく、全国規模で入試情報等を提供することを目的として、福岡市・神戸市・名古屋市・札幌市の4都市に設けられている。2009年3月26日には、衣笠キャンパスの至徳館2階に「立命館プラザ京都」が、また2011年6月1日には、びわこ・くさつキャンパスの「キャンパスインフォメーション・キャノピー」に「立命館プラザBKC」も設置された。学校法人立命館 学園一貫教育推進本部により小・中・高は附属校に位置づけられている。また、立命館高等学校は「1905年9月京都法政大学の附属校として清和普通学校を設立」と明記している。2013年11月18日、ゲーム研究センターがゲーム資料の現物寄付の募集を実施した。"この項目は、のを使用しています。" "1457336

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。