劉 楊(りゅう よう、? - 26年)は、中国の前漢時代末期から後漢時代初期にかけての武将、政治家。真定王。新末後漢初の群雄の1人で、景帝から七代の子孫にあたる人物である。父は真定共王普(劉普)、弟は臨邑侯譲(劉譲)、従兄は劉細、子は劉得。また、後の光武帝(劉秀)の皇后である郭聖通は劉楊の姪、光武帝配下の将軍耿純は甥(姉妹の子)である。なお、『漢書』諸侯王表第二、『後漢書』光武帝紀は、「劉楊」と表記しているが、『後漢書』劉植伝・耿純伝は「劉揚」と表記している。本記事では、両書で採用されている「劉楊」を便宜的にとるが、どちらが正しいかは不明である。綏和2年(紀元前7年)、死去した父の共王普の後を継ぎ、劉楊は真定王となる。16年後の始建国1年(9年)に王莽が新を建国すると、劉楊は真定公に降格され、翌始建国2年(10年)に公からも廃された。更始1年(23年)12月、河北で王郎が天子を称すると、劉楊は劉林と共に王郎に与し、十数万の軍勢を集めた。この時、河北平定に来ていた劉秀が、配下の驍騎将軍劉植に劉楊を説得させると、劉楊は劉秀に投降した。その後、劉秀が真定に留まると、劉楊の姪郭聖通を娶り、劉楊との関係を強化した。劉楊は、劉秀配下の諸将と郭氏が居住する漆里の邸宅で酒を酌み交わし、筑を弾いて楽しんだ。そして劉楊も王郎討伐のための邯鄲への進軍に加わり、王郎は劉秀により滅ぼされた。劉秀が光武帝として即位した頃に、劉楊は真定王に復帰したと見られる。しかし劉楊は、真定王の地位だけでは物足りず、皇帝の地位を望んだようである。劉楊は「赤九之後、癭揚為主(火徳の9代目の後に、首筋に瘤ある揚が主となる)」との讖記(預言書)を捏造して、衆を惑わし、綿曼(真定国)の賊と連絡をとった。建武2年(26年)春、光武帝は騎都尉陳副、游撃将軍鄧隆を派遣して劉楊を召還しようとしたが、劉楊は城門を閉ざして陳副らを入れようとしなかった。そこで、光武帝は前将軍耿純に符節を持たせて派遣し、幽州・冀州に大赦令を布告させ、王侯を慰労する傍ら、「劉楊と会うことがあれば、これを生け捕れ」と秘密裏に命令した。耿純は陳副・鄧隆と元氏で合流してから、真定国に向かい、伝舎に入った。劉楊はやはり病と称して会おうとしなかったが、耿純は甥であることから、彼にだけは会おうとした。ただし、警戒は怠らず、「会いたければ伝舎に留まれ」と使者を派遣して耿純に告げた。劉楊は弟の臨邑侯譲、従兄の劉細とともに各々1万人余りの軍勢を擁して現われ、その威勢を恃んだが、耿純は沈着に対応した。まず劉楊が属官だけを連れ、伝舎に入って耿純に面会すると、耿純は恭しい礼で応対する。安堵した劉楊は、劉譲・劉細らも招き入れる。しかし、劉楊の兄弟たちが入った途端に、耿純は伝舎の門を閉ざし、即座に劉楊以下残らず誅殺してしまった。真定はこれにより、平定されたのである。ただ光武帝は、劉楊らが実際には謀反を発動しなかったことを憐れむとして、同年5月、劉楊の子劉得を真定王に復帰させるという寛大な措置をとった。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。