アチョリ(Acholi, Acoli) は主に現在のウガンダ北部のアチョリ地方(キトグム県、グル県、パデル県)から南スーダン東エクアトリア州などに住むナイル系民族。人口は1991年のウガンダの国勢調査で746,796人、スーダンに45,000人 (2000年) である。アチョリはルオ系民族の一つで、バハル・アル・ガザール(現在の南スーダン)の辺りから来たと考えられている。17世紀末までにルォディ ("Rwodi") と呼ばれる首長による首長国群を形成し、19世紀半ばには東部アチョリ地方に60の首長国があった。19世紀後半にはアラビア語を話す交易家からショーリ ("Shooli") と呼ばれるようになり、これがアチョリとなった。彼らの伝統的な住居は円筒形の土壁に円錐形の茅葺き屋根である。土の寝台と、穀倉と囲炉裏が備えられ、赤、白、灰色に彩られる。網や槍による狩猟やヤギ、ヒツジ、ウシの放牧を業とする。戦争時には槍と細長いキリンやウシの革張りの盾を用いた。ウガンダの植民地時代にイギリスは南部特にブガンダの政治経済的開発に力を入れ、アチョリや他の北部の民族は単純労働に就いたり軍で主流派となった。後にこれは特にティト・オケロ将軍のクーデタ時などに「軍の民族支配」であると批判されるようになった。アチョリ主体の軍はヨウェリ・ムセベニの組織した国民抵抗軍 (NRA) に逐われ、の (UPDA) やアリス・アウマの (HSM)、ジョゼフ・コニーの神の抵抗軍 (LRA) へと流れていった。NRAの北部作戦とLRAの活動で多くのアチョリが強制移住させられ国内避難民 (IDP) となった。アチョリ語は、ナイル諸語のの一つで、同じルオ諸語に属すウガンダのランゴ語などと相互理解可能である。オコト・ビテックの『ラウィノの歌/オチョルの歌』は恐らく最も世に知られたアチョリの文学作品である。多くのアチョリは植民地時代にプロテスタントやカトリックに改宗し、ムスリムもいるが、伝統信仰に基づく守護霊や先祖霊の歌などの文化も残っており、しばしばキリスト教やイスラーム風に記述される例もある。
出典:wikipedia
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