フルート四重奏曲は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲した室内楽曲で、全部で4曲残されているフルート四重奏曲のうち3曲はマンハイムで書かれている。第1番が有名である。1777年9月、21歳のモーツァルトは職探しの目的でパリへの旅行に行った。その途次、長期間滞在したマンハイムには、当時のヨーロッパで有数の宮廷オーケストラがあった。モーツァルトはこのオーケストラへの就職を希望したが、成功するには至らなかった。しかしモーツァルトは、このオーケストラの名フルート奏者ヨハン・バプティスト・ヴェンドリングという人物と親交を結ぶが、ヴェンドリングは、オランダの裕福な商人フェルディナント・ドゥジャン(ド・ジャンとも)をモーツァルトに紹介する。音楽愛好家で、自身もフルートを吹くというドゥジャンは、モーツァルトに200フローリンで「小さくて軽く短い協奏曲を3曲と四重奏曲を何曲か、フルートのために作って」くれるように注文した。少しの収入が欲しかったモーツァルトはこれに応じ、結局出来上がったのはフルート協奏曲第1番、第2番(後者は旧作のオーボエ協奏曲の編曲)と3曲のフルート四重奏曲であった。しかし約束が違うというわけで、報酬は当初の話の半分以下の96フローリンにされてしまった。実はモーツァルトはフルート(の音色)が嫌いで、1778年2月14日付の父宛ての手紙の中で「我慢できない楽器のための作曲をずっと続けなければならないと、お分かりのように、僕はうんざりしてしまうんです。」と書いている。真相はわからないが、当時のフルートはまだベームによる改良以前で音程が不安定だったため、あるいはアロイジア・ウェーバー(後に妻となるコンスタンツェの姉で、作曲家ウェーバーの従姉)への恋の悩みのために予定した量の作曲が出来なかったことの言い訳だったとする説もある。ドゥジャンのための3曲の四重奏曲の最初のもので、1777年12日25日に完成された。4曲中最も有名な作品である。ドゥジャンのための3曲の四重奏曲の1つと考えられるもので、1778年1月か2月にマンハイムで作曲されたものと考えられている。しかし自筆稿が現存せず、モーツァルトの死後まもない1792年に出版された初版は、なぜか第1番K.285の第1楽章の後にこの2つの楽章をつけて3楽章形式とされているなど、妙なことも起きていた。また一部の学者たちの間では、この曲の成立や真偽について疑問が持たれている。ドゥジャンのための3曲の四重奏曲の1つと考えられているが、それよりずっと後の1782年頃にウィーンで作られたという説もある。というのは、この作品の第1楽章のスケッチの一部がオペラ『後宮からの逃走』のスケッチに含まれていたことや、第2楽章がセレナード『グラン・パルティータ』K.361(370a) の第6楽章と同じ音楽であること、という2つの間接的な証拠があるからである。しかし、いずれも真相は不明である。従来の説では1778年にパリで作曲とされてきたが、現在では1786年の秋から翌年の初め頃にウィーンで作曲されたという説が決定的になっている。というのは、この曲の全ての楽章の主題が当時の流行していた歌からできており、第3楽章が1786年にウィーンでヒットしたパイジエッロのオペラ『勇敢な競演』のアリアの主題を拝借しているからである。1786年といえば、オペラ『フィガロの結婚』や『プラハ』交響曲が生み出された時期で、音楽の彫りが深くなり、表現にいっそう幅が増した時期であったが、この四重奏曲はむしろ気楽で快適な気分に満ちている。各楽章の主題が当時親しまれていた旋律によっていることも、そんな性格をいっそう強めている。
出典:wikipedia
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