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陸奥石川氏

石川氏(いしかわし)は、平安時代中期から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・大和源氏の一門、源頼親の子源頼遠を祖とする。他氏との混同を避けるために陸奥石川氏または奥州石川氏と呼ぶことが多い。永承6年(1051年)、頼遠は子の有光とともに陸奥守源頼義に従って奥州に下向、前九年の役に従軍した。厨川に戦死した頼遠に代わって有光が軍を指揮。康平6年(1063年)、有光はその軍功により従五位下安芸守に任じられ、陸奥国(後の磐城国)白河郡から分離された石川郡を下賜された。有光は同郡泉郷を拠点として三芦城を築城して居住し、それ以来石川氏を称した。第 6代広季は、伊豆で源頼朝が平家討伐の兵を挙げたことを知り、寿永2年(1183年)、伯父光治率いる軍を鎌倉に送る。文治4年(1188年)、奥州藤原氏攻めのために白河関に到った頼朝は、石川の地にある川辺八幡宮に戦勝祈願を行い、三日間の滞在後に伊達郡厚樫山の戦場に向かった。奥州を平定し、凱旋する途上で神料を寄進した。第13代時光は、新田義貞による倒幕の軍に長子義光率いる軍を従わせて、元弘3年(1333年)、鎌倉幕府が滅亡して建武の新政が成ると、上洛して新政権から従五位下宮内大輔に、翌建武元年(1334年)に従四位下大膳大夫に任じられた。しかし、鎌倉幕府との結びつきが強かったことを理由に新政府に冷遇され、第14代貞光の時、陸奥守北畠顕家は古来から石川氏が治めていた領地を結城家や和地氏に与える。貞光はこれを迎え撃つために軍を挙げるが敗れ、建武2年(1335年)に足利尊氏に従って北朝方に属した。義光は足利軍の将として湊川の戦いに参戦、比叡山坂本の合戦において討ち死にした。以後は旧領奪還を目指す石川氏と結城氏の間で激しい争いが繰り返された。第25代晴光は、永禄6年(1563年)、伊達晴宗の四男・小二郎(後に昭光と改名)を養子に受け、家督を譲って隠居した。第26代昭光は天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐に参陣しない伊達政宗を憚って自らも援軍の派兵を見送った。しかし秀吉に恨まれ、奥州仕置によって領地は蒲生氏郷に与えられることとなった。老臣溝井義信は秀吉に対して異心のないことを闡明することを主張するが、秀吉軍が迫る中で賛同する者はなく、ついに伊達氏に仕えることを余儀なくされた。溝井は独り城に籠り、火を放って自刃した。伊達家に仕えた昭光は慶長3年(1598年)、伊具郡角田1万2千石の領主となり、石川家の碑所である長泉寺を石川から移し、守護神である八幡神を石川から勧請した。この時、一族の中には昭光に従い角田に移ったものと、刀を捨て農民・商人として残るものとに分かれた。慶長8年(1603年)、家督を嫡男義宗に譲るが、慶長15年(1610年)、義宗が34歳で没すると、昭光は再び政務を執る。その後、石川家は、伊達家臣の最上位である「一門」(本来、伊達氏と対等の大名で、伊達氏に帰順した名門を主とした)の首席として角田に要害(館)を構え、代を重ねるごとに新田を開き、知行は2万1千石に達した。この家系は角田石川氏と呼ばれる。『尊卑分脈』によれば、有光から義季の頃(鎌倉前期)に一族・庶流の分立が進み、石川荘内に地頭として配置された一族が城館を築いていった。しかし後代には一族間の結束は緩くなり、宗家と離れて周辺列強に属する者も出た。大寺・蓬田・蒲田・赤坂・矢吹(屋葺)・奈目津(滑津)・中畑(中畠)・坂地(坂路)・沢田・小高・河尻・矢沢・次鎌(須釜)・牧・高貫・沢井・相楽(相良)・塩田・大島・水野谷・板橋・古内など。

出典:wikipedia

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