淡路(あわじ)は、大阪府大阪市東淀川区の地名。中心部に位置する淡路駅では阪急京都本線・千里線が交差し、加えて2018年度末には西日本旅客鉄道(JR西日本)おおさか東線(城東貨物線を転用)も開業・連絡することになっており、今後ますます交通の結節点としての役割が期待される。淡路駅周辺は、商店街として賑わいをみせている。北を神崎川、南を淀川に挟まれた平地で、古代はもっと小さな中洲だったという(後述の菅原道真の逸話も、このことに因む)。中心部となる淡路駅近辺は両川から数百m離れており、「川の近く」とは感じられない。「淡路」との地名は、901年(延喜元年)に菅原道真が大宰府へ左遷され淀川を下っていた時、当時は中洲だった当地を見て「これが淡路島か」と勘違いし上陸した、との伝承による。淡路の東隣にある「菅原」という地名も、道真から来ている。道真の上陸地(淡路1丁目)にはかつて淡路天満宮があったが、1910年(明治43年)に中島惣社(東淀川区東中島)へ合祀され、現在は跡地に鎮座する愛宕神社境内に天満宮址を示す石碑を残すのみとなっている。江戸時代には西成郡増島村と高畑村を形成。1871年(明治4年)に両村が合併して淡路村となった。1889年の町村制施行により西中島村(のち西中島町)の大字となり、1925年(大正14年)に大阪市へ編入され、東淀川区国次町となった。新町名は来派の刀工「来国次」が淡路に居住していたことによるもので、同時に船場の淡路町との重複を回避している。なお「国次」の名は付近の一部施設に残されている。大阪市へ編入された年には、新京阪鉄道(現在の阪急京都本線など)が天神橋(現・天神橋筋六丁目)から当地まで路線を開業し、淡路は鉄道の結節点となった。なお淡路駅自体は4年前の1921年、北大阪電気鉄道(後に新京阪鉄道に合併)が十三~淡路~豊津間を開通させた際、同時に開業している。更に1928年には高槻町(現・高槻市)まで延伸され、現在に至る十字型の線形が構成された。一方で1929年には国鉄城東貨物線が開通し、淡路の東方を築堤でを南北に縦断するようになった(2018年度中におおさか東線北部区間として旅客営業開始予定。同時に駅設置予定)。1980年(昭和55年)に東淀川区での住居表示実施と同時に町名変更が行われた。この時に従来あった「淡路本町」・「淡路新町」の町名が消え、下新庄のうち、城東貨物線以西の区域が淡路に組み入れられた。「淡路本町」の名は今でも商店街名にその名残をとどめている。淡路駅西口一帯は商店街・市場・金融機関・遊興施設などが多く、日中は人通りが多い。駅東側の東淡路は住宅地で、東淀川図書館やクレオ大阪北などの公共施設が多い。淡路西部は住宅地だが新大阪方面からの道路が東西に貫いている。西淡路は住宅地と小工場が錯雑している。淡路の中心部は商業地として賑わう一方、道路は狭く曲がりくねっている。幹線道路と言えるのは南縁部の淀川沿いを通る淀川通(大阪府道14号大阪高槻京都線)ぐらいである。そのため、大阪市営バスの路線も中心である阪急淡路駅前には乗り入れられず、淀川通を通る路線以外は、北部の東海道新幹線の高架沿いに中型車を使用する11号系統が通るのみである。淡路駅周辺の高架化工事完了の際には改善が見込まれている。かつて淡路地区には阪急新大阪連絡線構想があった。阪急十三駅・神崎川駅から新大阪駅を経由し淡路駅へ至るもので、実現すれば阪急淡路駅は5方向からの列車を受ける一大拠点となるところだった。しかし阪急電鉄は2002年12月6日に新大阪~淡路間及び神崎川~新大阪間の免許廃止申請を提出、翌2003年には正式に受理され、新大阪から淡路へ阪急の路線が来ることはなくなった。2018年度末にJRおおさか東線の開業が予定されており、阪急の代わりにJRによる新大阪連絡は可能となる。阪急淡路駅は近く高架化され、駅舎をJR線に寄せる形で東側へ移すと同時に駅前広場等を整備して,現在まったくバスなどの乗り入れる余地のない点を改善する予定である。ただ商店街や諸施設の多くは現在の駅位置に直結しており、今後が注目される。阪急が淡路~新大阪間建設を断念してから暫く経った2006年5月、両駅間アクセスを図ったコミュニティバス「あいバス」が運行を開始したが、2年弱で廃止となった(後述)。これらの系統は、いずれも淡路の周縁部を走っている。中心部については、淡路駅と新大阪駅を連絡するコミュニティバス「あいバス」が2006年5月から2008年3月まで運行されていたが、利用不振につき廃止された。現在、淡路駅に乗り入れる路線バスはない。
出典:wikipedia
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