羊蹄丸(ようていまる)は、1965年(昭和40年)から1988年(昭和63年)まで日本国有鉄道(国鉄)および北海道旅客鉄道(JR北海道)の青函航路で運航された車載客船で、同航路における羊蹄丸という船名は2代目であった。※津軽丸型の詳細は津軽丸 (2代)参照1960年代初頭(昭和30年代半ば過ぎ)の青函連絡船の主力は、終戦前後に建造された船質の良くない戦時標準船ならびにそれに準じる船で、既に老朽化していた。これらの代替と、高度経済成長による輸送需要の著しい増大に対応するため建造されたのが津軽丸型車載客船で、羊蹄丸はその第6船であった。この型の船は洞爺丸事件や紫雲丸事件を教訓とした安全性重視の設計と、当時の造船・海運界の最先端を行く自動化を誇り、青函航路 青森 - 函館間113.0kmを従来より40分短縮した3時間50分で結び、海の新幹線と呼ばれた。津軽丸型6隻の船名は一応公募という形が取られたが、本船の船名は洞爺丸型の羊蹄丸(初代)から引き継がれたもので、1977年(昭和52年)に船体に取り付けられた羊蹄山とイルカが描かれたシンボルマークもこれに由来した。終航後は、1992年(平成4年)に イタリア、ジェノヴァ国際博覧会に展示された後、1996年(平成8年)3月22日から2011年(平成23年)9月30日まで東京の船の科学館に展示されていたが、2012年(平成24年)7月から翌年4月にかけ、香川県 多度津町で解体された。現在はテーマパーク「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」となっている場所にあった日立造船株式会社桜島工場の第4,068番船として建造されたが、本造船所にとって青函連絡船建造は初めてであった。建造方式は他の津軽丸型同様、既に当時広く普及していたブロック工法で、これは予め工場で分割製作した船体ブロックを船台上で電気溶接して繋いでゆく工法であった。複数のブロックを同時に製作できるため工期短縮ができたが、溶接により熱せられた鋼板が冷却とともに縮むことを念頭にブロックを船台上に搭載する「位置決め」が重要であった。さらに車載客船では、その複雑な構造のため溶接使用量が多く、比較的薄い鋼板を用いたこともあり、溶接による歪の発生が多発し、歪取り作業が増加して船体収縮や船体変形の傾向を強めた。しかし船体の長さが計画より縮むことは、鉄道車両を積載する船内軌道の有効長が縮むことになり、これは計画した車両数を積載できなくなることを意味する。このような困難な課題を克服しながら、羊蹄丸は計画通りの寸法で完成することができた。なお積載車両数は、左舷側の船1番線から、ワム換算で12両、14両、10両、12両の合計48両であった。また大雪丸(2代)・摩周丸(2代)同様、本船でも搭載主機械と主発電機の機種が津軽丸型第3船までと異なり、機関部全体で約100トンの重量増加となって、船体の一層の軽量化が求められた。このため、溝形プレスを施した薄鋼板“ハット・プレート”(コルゲートプレート)を航海甲板の甲板室外板へ広く採用し、外観上の特徴となった。ほぼ同時並行建造の摩周丸(2代)同様、車両甲板プラットホームから2等出入口広間への階段設置や、航海甲板後端後部消音器室後ろ側への歩行スペース拡張、鎖レバー・ブロック式甲種緊締具の部分導入も行われた。当時最先端の自動化・遠隔操縦化を導入し、運航定員を先代の半数以下の53名とした。津軽丸型は年間3隻のペースで連続して建造され、当初、6隻目の本船が津軽丸型最終建造船となる予定で、シリーズ最終船として、本船のみ船名のイニシャルを前部マストに表示しなかったとされたが、後に十和田丸(2代)が追加建造され、7隻となった。車両甲板船尾開口部への水密扉設置はもちろんのこと、車両甲板下の船体を12枚の水密隔壁で13区画に分け、隣接する2区画に浸水しても沈まない構造とし、船体中央部の5区画では、船底だけでなく側面もヒーリングタンク等で二重構造とした。さらに乗客全員を収容できる多数の膨張式救命いかだ(ライフラフト)と、緊急時に海面に投下された救命いかだへ、客室から乗り移るための世界初の膨張式滑り台、火災警報装置、スプリンクラー設備などの安全設備が装備された。洞爺丸の代船として建造された十和田丸(初代)以前の青函連絡船の外舷下部塗色は黒と決められていたが、十和田丸(初代)で薄緑(10GY6/4)が採用され、これが好評であったことから、既存の車載客船もその後、全船、緑系統の“とくさ色”(10GY5/4)に塗色変更されていた。津軽丸型では、当初、船体の塗色は建造する造船所に一任されていたが、その結果、津軽丸以外は全て、無難と思われた緑系統の塗色で工事が進められた。このため、羊蹄丸でも、外舷下部を薄緑(10GY6/4)、上部を象牙色(2.5Y9/2)塗装で建造中のところ、青函連絡船を運用していた現地局から、まぎらわしいので、船ごとに色を塗り分けて欲しいとの要望があり、羊蹄丸では進水後にエンジ(4.5R3.3/9)とクリーム色(2.5Y9/4)に塗り替えられた。その後、津軽丸型では各船すべて違う船体色に塗り分けられることとなり、結果「津軽海峡に美しい花が咲いた」と喜ばれた。なおこのエンジ色は1958年(昭和33年)11月東海道本線で運転開始した初の電車特急151系「こだま」の窓周りの色であった。ジェノヴァ国際博覧会日本館パビリオンに使用する際に外装を白/青へと塗色変更。その後、船の科学館での展示に際し塗り分け線が下げられるなど、青函連絡船当時とは異なる外観となっていたが、2003年(平成15年)に現役当時の塗色へ復元された。ファンネルマークは煙突につけられた所有者を識別するマークで、比羅夫丸・田村丸就航翌年の1909年(明治42年)、かつて官設鉄道が創業時から1885年(明治18年)まで所属していた工部省の「工」の赤文字をファンネルマークとすることを「鉄道院汽船塗装規程第4条」で規定し、以後長らく「工」が使われてきたが、1964年(昭和39年)建造の津軽丸(2代)からは、151系「こだま」形特急電車に取り付けられた日本国有鉄道「JNR」(Japanese National Railways)を図案化したマークを赤色(7.5R4/14)にし、ファンネルマークとして使用した。しかしこのマークのオリジナルの縦横比は1:8とファンネルマークには横長過ぎたため、松前丸(2代)以外の津軽丸型第1~5船では縦横比1.5:8に修正のうえ、煙突にはJNRマークが収まる白鉢巻塗装を施し、渡島丸(2代)型6隻を含む羊蹄丸以降の建造船では更に2:8に修正し、鉢巻もそれに合わせ太くし、その鉢巻上に貼り付けられた。1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化により青函連絡船はJR北海道に継承され、船籍港は国鉄本社のあった東京から青函連絡船母港の函館に変更され、ファンネルマークもJR北海道のマーク「JR」 (コーポレートカラーはライトグリーン)に変更されたが、JNRほど横長ではないJRマークを、変形することなくJNRが収まっていた太さの異なる鉢巻に合わせた大きさで作成されたため、大小2種類のJRマークが出現した。なお、ジェノヴァ国際博覧会の展示船への改造時に、ファンネルマークは「JNR」に戻され、船籍港も東京に戻された。
出典:wikipedia
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