アルベルト・フェレール・リョピス(Albert Ferrer Llopis, 1970年6月6日 - )は、スペイン出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。スペイン代表であった。現役時代のポジションはDF(右サイドバック)。敏捷で武骨なタックルが持ち味のディフェンダーであった。地元FCバルセロナの下部組織出身で、1989-90シーズン後半戦にCDテネリフェにレンタル移籍し、19歳だった1990年にプリメーラ・ディビシオン(1部)デビューした。1990年夏にFCバルセロナのトップチームに戻ると、右サイドバックのレギュラーとなり、8シーズンの間クラブに在籍した。同じく下部組織出身で守備的なウイングを務めていたセルジ・バルフアンと連携し、リーグ戦205試合に出場した。ヨハン・クライフ監督が指揮したいわゆるエル・ドリーム・チームの重要なメンバーであり、5度のリーグ優勝、1度のUEFAチャンピオンズリーグ優勝、1度のUEFAカップウィナーズカップ優勝、2度のコパ・デル・レイ優勝、4度のスーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝、2度のUEFAスーパーカップ優勝を果たした。1997年にルイ・ファン・ハール監督が就任するとオランダ人選手が大量に加入したため、1998年6月にギジェルモ・アモールとともにクラブを離れ、移籍金220万ポンドでイングランド・チェルシーFCに移籍した。チェルシーFCではすぐにチーム内での立ち位置を確立し、1998-99シーズンにはクラブ初のUEFAチャンピオンズリーグ出場権獲得を助けた。1999-2000シーズンにはFAカップで決勝に進出し、自身は負傷のために決勝出場を逃したが、3シーズンぶりの優勝を果たした。また同シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは16試合中14試合に出場し、ヘルタ・ベルリン戦(2-0)ではチェルシーFC在籍期間中唯一の得点を挙げ、準々決勝進出に貢献した。2000-01シーズンには、度重なる負傷やジャンルカ・ヴィアリ監督のローテーションを重視する方針から出場機会が減少し、リーグ戦14試合の出場にとどまった。2001-02シーズンには再びFAカップで決勝に進出したが、今度は優勝を逃した。2001-02シーズンと2002-03シーズンには監督に良く思われず、さらに若いディフェンダーとの厳しい競争などがあり、2シーズンで計7試合しか出場できなかったため、2003年5月に契約満了によってクラブを離れ、33歳で現役引退を表明した。チェルシーFCでは公式戦通算113試合に出場した。1991年9月4日、オビエドで行われたウルグアイとの親善試合(2-1)でスペイン代表デビューした。スペイン代表はEURO1992の予選で敗退して本大会には出場できなかった。1992年のバルセロナオリンピックではレギュラーとして出場して金メダルを獲得した。1994 FIFAワールドカップにはレギュラーとして出場し、1998 FIFAワールドカップではグループリーグのナイジェリア戦(2-3)戦の1試合に出場した。EURO1996とEURO2000は負傷で出場を逃した。現役引退後の数年間はいくつもの放送局でサッカー解説者を務めた。2010年10月後半、エールディビジのフィテッセ監督に就任し、アシスタントコーチにはアルベルト・カペーリャス(FCバルセロナの元ユースコーチ)、スタンリー・メンゾ()(元オランダ代表GK)などを起用した。15位でなんとかエールステ・ディヴィジ(2部)降格を回避したが、契約満了で監督を退き、後任のジョン・ファン・デン・ブロム監督にバトンタッチした。2014年2月17日にから監督の座を受け継ぎコルドバCFの監督に就任。就任当初13位だった順位を7位まで上昇させ、昇格プレーオフへ導いた。昇格プレーオフではUDラス・パルマスをアウェーゴール差で下し、42シーズンぶりのプリメーラ・ディビシオン昇格を決めた。しかし、第8節の時点で唯一の未勝利で最下位となり、10月20日に解任された。2015年6月20日、セグンダ・ディビシオンに所属するRCDマヨルカの指揮官の座に就いた。しかしクラブは降格圏に沈み、同年12月1日に解任が発表された。
出典:wikipedia
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