柏 文蔚(はく ぶんい)は清末民初の軍人・政治家・革命家。中国同盟会以来の革命派人士で、中国国民党でも要人となった。字は烈武。1896年(光緒24年)、秀才となり、その後、安徽大学堂に入学した。1902年(光緒28年)、趙声と南京で強国会を組織し、反清を謀る。しかし事が洩れ失敗し、安徽省へ戻って安徽武備学堂に入学した。1904年(光緒30年)、安徽公学の教員となる。1905年(光緒31年)、陳独秀らと岳王会を組織し、南京分会分会長となった。同年9月、南京第9鎮第17協第33標第2営管帯となっていた趙声の招聘に応じ、南京で同営前隊隊官となる。趙声が第33標標統となると、柏文蔚は第2営管帯となった。1906年(光緒32年)、中国同盟会に加入した。この年の秋に、柏文蔚は同郷の孫毓と共謀し、両江総督端方を爆弾で暗殺しようと謀る。しかし失敗して東北へ逃れ、吉林省の胡殿甲が率いる吉強軍に逃げ込んだ。1907年(光緒33年)、呉禄貞が吉林省の辺境事務を担当すると、呉の推挙で柏は参謀となる。1908年(光緒34年)、呉が新軍第1鎮鎮統となると、柏はハルビン屯田営管帯に任命された。1910年(宣統2年)2月、奉天督練公所参謀に任命された。1911年(宣統3年)夏、馮麟閣、藍天尉らと東北での蜂起を計画した。しかし同年10月10日に武昌起義が勃発すると、柏文蔚は南へ戻り、南京攻略戦に参加した。同年11月、柏は寧軍第1軍統制を号している。1912年(民国元年)1月に南京で中華民国臨時政府が成立すると、柏の軍は中華民国第1軍となった。4月、柏は安徽省の政治的混乱を鎮圧するために、軍を率いて安徽省に入る。そして孫毓筠の後任として署理安徽都督兼民政長に任命された。7月、柏は正式に安徽都督に任命され、9月に陸軍中将位を授与された。柏は、安徽省の統治者として、アヘン禁止などの民政改革に取り組んでいる。1913年(民国2年)5月、柏文蔚は湖南都督譚延、江西都督李烈鈞、広東都督胡漢民と連名で、袁世凱に対して善後大借款に反対する電報を打った。これにより6月、袁は柏・李・胡の3都督を罷免し、あわせて軍を南進させた。7月、柏ら反袁派の都督は省の独立を宣言、挙兵した。これが二次革命(第二革命)である。しかし、まもなく反袁派は敗北し、柏は日本へ逃亡した。1914年(民国3年)、中華革命党に入党する。1915年(民国4年)12月に護国戦争(第三革命)が勃発すると、柏文蔚は南洋で護国軍のために資金募集に従事した。1916年(民国5年)2月29日に帰国し、上海に到着した。1918年(民国7年)10月、孫文が護法戦争を発動すると、柏文蔚はこれを支持し、靖国軍川顎聯軍前敵総指揮に任命された。その後も孫文の下で軍職を歴任し、1921年(民国10年)5月、総統府顧問に任命される。1922年(民国11年)4月、長江上游招討使に任命された。1924年(民国13年)1月には北伐討賊軍第2軍軍長となり、この月には、中国国民党の中央執行委員にも選出されている。孫文死後の1926年(民国15年)8月、国民革命軍第33軍軍長に任命され、安徽省各地を転戦した。1927年(民国16年)4月12日の、蒋介石による反共クーデターでは、柏文蔚はこれを非難する声明を発した。9月、寧漢合流後に、第33軍軍長を罷免され、国民政府委員に異動する。1928年(民国17年)8月、柏文蔚は反蒋介石の立場から、中国国民党改組同志会に加わったが、11月までに国民党を除名されてしまう。1930年(民国19年)の反蒋各派による北平拡大会議でも常務委員として活動したが、蒋の前に敗北した。1931年(民国20年)、国民党に復籍している。その後は馮玉祥らと組んで、国共合作や対日抗戦を主張した。1947年(民国36年)に引退し、同年4月26日に柏文蔚は上海で死去した。清貧な生活を維持し続け、困窮の中での病没であった。享年72(満70歳)。
出典:wikipedia
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