111号艦(ひゃくじゅういちごうかん)は、大和型戦艦四番艦として計画された戦艦であるが、建造中止となり解体された。艦名は紀伊を予定していたとされる。1936年(昭和11年)のワシントン海軍軍縮条約の失効を見越して新戦艦建造の研究をすすめていた日本海軍は、欧米列強の新世代戦艦に対抗すべく、4隻の新戦艦を建造する“A-140計画”をまとめた。第三次海軍軍備充実計画により、1937年(昭和12年)11月4日に呉海軍工廠で一号艦(後の大和)が起工。1938年(昭和13年)3月29日に三菱重工業長崎造船所で二号艦(後の武蔵)が起工。1940年(昭和15年)8月8日、「大和」は進水。続いて第四次海軍軍備充実計画により、1940年(昭和15年)5月4日(もしくは4月7日)に横須賀海軍工廠で110号艦(後の信濃)が起工。本艦は大和進水から約3ヶ月後の1940年(昭和15年)11月7日、呉海軍工廠で本艦(111号艦)が起工した。基本性能・要目は先行2隻(大和、武蔵)と変わらないが、110号艦(信濃)および111号艦(本艦)では、様々な問題点の改良が図られている。また対空火器として10cm高角砲を搭載する予定だった。だが砲の製造能力と予算上の制約のために見合わされた。1945年(昭和20年)10月の竣工を目指して本艦は起工したものの、「大和」の残工事が予想以上に残っており、さらに同艦の竣工時期を1942年(昭和17年)6月上旬から1941年(昭和16年)12月上旬に繰り上げたため、呉海軍工廠の努力は111号艦ではなく「大和」に集中した。111号艦の工事は「大和」の目途がついた1941年(昭和16年)3月頃から順調に進むようになったが、二重底を設置して舷側甲鉄を組み上げ、前後防御囲壁設置工事中に工事中止指令が出される。太平洋戦争直前の日本海軍内では時間を要する大型艦の建造よりも軽艦艇、輸送船舶の急造や損傷艦艇の修復計画が優先されており、開戦後の真珠湾攻撃やマレー沖海戦などで航空攻撃により戦艦が撃沈されることが証明されるよりも前に110号艦や本艦の建造中止がすでに決定されていた。1942年(昭和17年)6月上旬のミッドウェー海戦で日本海軍は主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙に喪失、横須賀海軍工廠の110号艦(信濃)は空母に改造されることになった。一方、呉海軍工廠は改大鳳型航空母艦2隻と改飛龍型航空母艦5隻の建造を割りあてられ、造船ドックから111号艦をどけなくてはならなくなった。呉工廠は寸法を縮めた空母改造試案を出したが断念し、111号艦の二重底は5つに分解され、ポンツーン(浮桟橋)として再利用された。また111号艦以降の超大和型戦艦も、同様に計画中止となった。本艦建造のために製造・集積されていた各種資材は、後に様々な艦艇の建造材料や修復のため転用された。一部は横須賀の110号艦(信濃)にも転用されたという。伊勢型戦艦2隻(伊勢、日向)を航空戦艦に改造する際にも一部が使用されている。また呉海軍工廠で行われたドイツ客船シャルンホルスト(空母神鷹)の空母改造工事にも用いられた。本艦の名称には異論や異説が多いが、完成時には日本の旧国名から採られる予定だった。111号艦に採用されるはずだった名称は『紀伊』であったとされることが多く、第二復員局の海軍関係者が1951年(昭和26年)にまとめた資料で確認できる。
出典:wikipedia
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