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カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ

カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ(Canadian-American Challenge Cup)、通称カンナム(Can-Am)は、かつてカナダとアメリカで行われていたプロトタイプレーシングカー選手権。北米スポーツカーレースの最高峰カテゴリとしてSCCA (Sport Car Club of America) とCASC (Canadian Automobile Sport Clubs) が共同で開催した選手権シリーズ。中断期間を挟み1966年から1974年までの第一期(9年間)と、1976年から1986年までの第二期(10年間)に分けられる。競技車輌は国際自動車連盟 (FIA) のグループ7規定により並列2座席(第二期は単座)のオープントップボディ、エンジン排気量は2,500cc以上ならば上限なしとされた。1レースあたりの走行距離は200マイル前後(約320km)で、ドライバー交代はなし。インディカーやNASCARのようなオーバルコースは使用せず、北米各地のロードサーキットを転戦し、年間獲得ポイントによりドライバーズチャンピオンを決定した。エンジン排気量無制限というルールが象徴するように技術面の自由度が高く、大排気量マシンの豪快なレース展開が人気を集めた。北米独自のシリーズながら、最盛期にはF1やスポーツカー世界選手権と比較されるほど注目された。ヨーロッパの有力コンストラクターが北米でのシェア拡大を目指して参戦し、「賞金総額世界一」を謳う報酬にひかれて一流ドライバーも数多く出場した。アメリカでは1963年から国内選手権のUSRRC (United States Road Racing Championship) が行われており、1966年から国際選手権のCan-Amが始まった。初期はモータースポーツシーズンの終盤にあたる9月から11月にかけて年間6戦のスケジュールで行われたが、1969年からはUSRRCを吸収し6月から10月にかけて10戦前後が行われるようになった。おもなコンストラクターはヨーロッパ勢のローラ、マクラーレン、ポルシェや、アメリカのシャパラル、シャドウなど。このほかフェラーリやBRM、マーチも小規模ながら参戦した。自製エンジン搭載車以外はシボレーやフォードの市販V8エンジンをベースにした量販エンジン(5,000ccから7,000cc)を使用した。ドライバーではジャッキー・スチュワート、ジャック・ブラバム、グラハム・ヒル、フィル・ヒル、ジョン・サーティース、デニス・ハルムといったF1チャンピオン経験者が参戦し、ダン・ガーニー、マリオ・アンドレッティ、パーネリ・ジョーンズ、マーク・ダナヒュー、ピーター・レブソンら地元勢と競い合った。1966年の開幕シーズンは接戦の末ローラに乗るジョン・サーティースが初代チャンピオンとなったが、翌年から1971年にかけてはマクラーレン勢の独擅場となった。ブルース・マクラーレンとデニス・ハルムはオレンジイエロー色のワークスマシンで独走劇を重ね、「ブルース・アンド・デニー・ショー」と呼ばれた(1969年シーズンは2人で11戦全勝)。また、プライベーターへのマシン供給により出走台数の半数以上をマクラーレン勢が占め、コンストラクターとして23連勝という記録も残した。チームオーナー兼ドライバーのブルース・マクラーレンが1970年のテスト中事故死するという不運に見舞われたが、F1での成功に先駆けて名門チームとしての地位を固めることになった。また、石油王ジム・ホールが率いるシャパラルは独創的なマシン設計によりCan-Am人気のシンボルとなった。優勝こそ1度のみだったが、セミオートマチックトランスミッション、ハイマウント・可動式リアウイング(ペダルで調節可能)、サッカー・カー(ファン・カー、グラウンドエフェクトの祖)などの斬新な技術はF1など他のカテゴリのマシンにも大きな影響を与えた。シャパラルの他にもオートコーストのチタニウム製シャーシや、マックス・イット・スペシャルのスノーモービル用2気筒エンジンを4基搭載した四輪駆動車といった実験的なアイデアもみられた。1972年、スポーツカー世界選手権の規定変更をうけ、耐久レースの雄ポルシェがCan-Amに本格参戦する(ワークスの運営はペンスキー・レーシングが代行)。シボレーV8エンジン勢(7〜8.5リッター、約600馬力〜900馬力)に対して、ターボチャージャーを装着した5リッター水平対向12気筒エンジンは公称1,100馬力の怪物的パワーを発揮(後に5.4リッターに拡大、ピークは1,580馬力にも達すると言われた)。ポルシェ勢がこのシーズンを席巻し、マクラーレンはワークス活動休止に追いやられた。翌1973年もポルシェの圧勝が続いたが、FIAが燃費規制を導入する方針を示したことで意欲を失い、ワークス活動から撤退することになる。マクラーレンとポルシェが去った1974年はシャドウに乗るジャッキー・オリバー(のちのアロウズ代表)が制した。しかしオイルショックの余波で年間5戦しか行われず、1975年はシリーズ自体が休止に追いこまれた。2年間のブランクの後、1977年より「単座・排気量5,000cc」にルール変更してシリーズが再開された。マシンはローラやダラーラの旧式F5000用シャーシをスポーツカータイプに改造したもの。あわせてF2マシンを流用した2,000クラスも併設された。その後10シーズン開催されたが、第一期ほどの人気は集められなかった。北米スポーツカーレースの中心はSCCAから独立したIMSA-GTPに移り、Can-Amシリーズは1986年をもって消滅することになった。1960年代末、日本国内のスポーツカーレースではトヨタと日産の開発競争が過熱していた。両陣営はスポーツカー世界選手権進出を視野に入れていたが、エンジンの大排気量化にともないグループ7規定のCan-Amシリーズ参戦計画が浮上する。1968年と1969年にはNAC(日本オートクラブ)主催により、富士スピードウェイで非選手権の「ワールドチャレンジカップ・富士200マイルレース」(通称:日本Can-Am)が開催された。本場Can-Amシリーズのマシン・ドライバーが来日し、サーキットを通常とは逆の反時計周りで走行した。1968年はマクラーレンM6Bに乗るピーター・レブソンが優勝。日本勢はトヨタ7(3,000cc)の福沢幸雄の4位(7周遅れ)が最高位だったが、翌1969年のレースではトヨタ7(5,000cc)に乗る川合稔が優勝した。トヨタは1970年の日本グランプリ中止後もCan-Amシリーズ挑戦を目指してトヨタ7ターボを開発した。富士1000kmでデモ走行を行い参戦発表寸前となったが、同年8月に川合がテスト中事故死したため計画は幻に終わった。このマシンは長年非公開とされたが、近年ふたたびイベントなどで一般公開されている。また、ライバルの日産もR383を開発したが、同様に参戦をとりやめたといわれる。日本人ドライバーでは鮒子田寛がスポット参戦。風戸裕は1971年に本格参戦し、年間ランキング10位の成績を収めた。

出典:wikipedia

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