フフホト市(フフホトし、中国語:呼和浩特市、モンゴル語:、英語:Hohhot)は、16世紀にアルタン・ハーンによって築かれた南モンゴルの古都フフホトと、近隣の4つの県、1つの旗(ホショー)によって構成された中華人民共和国の地級市のひとつであり、内モンゴル自治区の省都、直轄市(シュード・ハリヤ・ホト、siγd qariya qota)。都市の名は、モンゴル語で「青い城」を意味し、古都の部分は同市の市区として位置づけられている。面積17,410平方キロメートル、人口227.4万人(2009年)。現在の人口のほとんどは漢民族であり、チベット仏教の寺院のほかは、モンゴル特有と思われる要素はあまりない。1565年にモンゴルのトメト部長アルタン・ハーンによって、主にトメト部の支配地域に流入した漢人の定住民を居住させる町として建設された中国式の城郭都市バイシン(大板升)がフフホトの起源となっている。バイシンとは中国語の百姓の音訳である。トメト部遊牧国家の主要領民である遊牧民は、指導者家系の婚姻や分家などで分割と融合が頻繁な遊牧集団単位の所属意識を強く持ち、本来は漢人式の姓の概念は持たない。そして移動式住居であるゲルに居住して都市内の定住用住居への居住からは閉塞感を強く感じ嫌う者が多い。漢人居住のために築かれた都市に百姓の名称が充てられたのは、こうした本来は漢人式の姓の概念を持たない遊牧民に対して、男系家系を姓で表現し、同姓集団への帰属意識が強く、都市での定住生活を好む漢人の居住地を指したからである。なお、百姓の項目に詳述したように、中国語の百姓は庶民も姓を持つ、漢人の上層民から下層民までを含む民衆一般を指す語であり、農民の意味はない。1571年にアルタンが明と講和して順義王の称号を与え、国境沿いで貿易することを認めると、明によって帰化城の名を与えられたフフホトは中国からモンゴル高原に流れる物資の集積地となって栄えた。アルタンは晩年にダライ・ラマに帰依してチベット仏教に改宗したため、フフホトへは数多くのチベット仏教寺院が建立され、オルドス地方の精神的中心地となる。トメト部はモンゴル民族の間で中国貿易の利権を独占したため、その定住拠点であるフフホトは急速に発展するが、1628年にチャハルのリンダン・ハーンに奪われた。さらに1634年、リンダン・ハーンが病死すると満州民族の後金がフフホトを占領し、内モンゴル全域を支配して1636年に国号を清と改めた。清は、帰化城(kūhe hoton)の北東隣に綏遠城(goroki be elhe obure hoton)を築き、オルドス地方の防衛を担当する八旗の駐留地とした。帰化城と綏遠城はあわせて「帰綏」と呼ばれ、清代以降、中央政府の直轄地として内モンゴルの政治、経済、文化の中心地となった。その後、1913年に帰綏の行政体が帰化県から帰綏県に改められ、1950年に市に昇格してフフホト市となった。当市は4区・4県・1旗で構成されている。常住人口は258.00万人,市区地域の人口は133.08万人,蒙古族の人口は20.1万人,その他の少数民族の人口は6.7万人。合計特殊出生率は9.9‰,死亡率は11.6‰,自然増加率は-1.7‰。(すべて2008年末)36の民族が住んでいる。
出典:wikipedia
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