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矢向

矢向(やこう)は横浜市鶴見区の町名である。一丁目から六丁目が存在する。2013年5月31日現在の推計人口は19,908人。郵便番号230-0001。鶴見区の東北部、鶴見川の左岸地域に位置し、狭い川崎市域を挟んで多摩川にも近接する。鶴見区の北端であり、距離の上では区政の中心である鶴見駅周辺よりも、川崎市の川崎駅に近い。沖積層からなる平地であり、海抜は2メートルから3メートル。北西に江ヶ崎町、西に鶴見川を挟んで上末吉・下末吉、南に元宮・尻手と接し、東側と北側は川崎市幸区である。区域南部の国道1号沿いの地域は比較的大規模な工場から中小の工場・事業所が並び、他はほぼ住宅地となっている。南武線と品鶴線(横須賀線)の線路が区域を縦断している。特に後者は新鶴見操車場の跡地を伴うもので、東側の矢向一丁目とその他の地域の間は陸橋を通らなければ往来できない。16世紀末までは多摩川の河口は今より南にあり、矢向は多摩川の河畔に位置していた。このことは、地質的に旧河道や自然堤防が認められることのほか、最願寺の観音像が多摩川を流れて「矢向の川岸」に漂着したものであると伝わることからも裏付けられる。大正の頃はほとんど農地であった。鶴見川と多摩川に挟まれた良好な土地だったためである。平安時代の頃までは付近は東京湾に浮かぶ浮洲の一つであったらしいが、矢向で最も古い良忠寺の創建が1240年(仁治元年)であり、その頃までには開拓が進められ、現在につながる農村が成立していたとみられる。古くから武蔵国橘樹郡に属した。江戸時代には川崎領矢向村と呼ばれ、時期や地域によって天領、寺領、旗本領のいずれかであった。二ヶ領用水の開通後は矢向村内にも水路が引かれて農業に利用された。明治維新にあたっては、1868年(明治元年)のうちには神奈川県に編入されたと推定される。その後の地方制度改革のもとで、矢向村の行政区域は以下のような変遷を経た。昭和になり京浜工業地帯に日本鋼管、旭硝子、味の素、東芝などの工場が出来、そこに勤める人たちが多く住むようになった。1927年に南武鉄道が開業したことで、矢向駅・尻手駅を中心に住宅地が広がっていった。1945年(昭和20年)4月15日の川崎・鶴見空襲では矢向駅(駅舎焼失)や隣接する矢向電車区(車両5両焼失)などに被害があった。現在矢向駅前に立つクスノキの大木はその際に焼けた南武鉄道開通記念樹3本のうち1本だけが蘇生したものである。1951年(昭和26年)に出版された林芙美子の小説『めし』では、当時の矢向が次のように描写されている。この小説は同年に映画化され、実際に矢向駅前などで撮影された映像が使われた。戦後は、京浜工業地帯の発展と東京一極集中の進展にともなって人口も増え、中小の工場・事業所と住宅が密集する地域となった。児童数が急増した横浜市立矢向小学校は市内有数のマンモス校となり、1947年(昭和22年)から15年ほどの間、二部授業制をとった。また、児童生徒数が多いため、1962年(昭和37年)に創立した横浜市立矢向中学校は、一校の小学校に一校の中学校が対応した。1968年(昭和43年)に住居表示が実施され、矢向町は現在の矢向一丁目から六丁目となった。1995年(平成7年)、JR横須賀線(品鶴線)の線路を挟んだ隣の江ヶ崎町に横浜市立新鶴見小学校が創立され、矢向小学校の学区が分かれた。この頃から、中小の工場が移転した場所に大規模マンションの建設が進み、人口はさらに大きく伸びた。

出典:wikipedia

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