清洲越し(きよすごし)は、慶長17年(1612年)頃から元和2年(1616年)までのころに行われた、名古屋城の築城に伴う清洲から名古屋への都市の移転をいう。これにより、名古屋という都市が誕生した。本項で扱う清洲越しには従来より表記の混用が見られ、文献によっては清須越などの表記もみられる。以下本項における記述は清洲越しで統一する。尾張国(現・愛知県)の中心は、長らく清洲城とその城下町であったが、関ヶ原の戦い以降、大阪の豊臣氏の勢力に対抗しなければならない政治情勢や地形上清洲の地が水害に弱いこと、天正地震で液状化した清洲城から、徳川家康の命により、慶長14年(1609年)、現在でいう名古屋台地の上に、新たに城を築き、新しい都市を開発することとなった。慶長15年(1610年)、西国諸大名の助役による天下普請で、名古屋城の築城が開始した。慶長17年(1612年)ころになると、名古屋城を北端に、南北には現在の本町通が、東西には伝馬町通が敷設され、これを中心に、名古屋城下の碁盤割の町割が実施された。伝馬町通は、東端で飯田街道とつながっていた。碁盤割の実施された範囲は、北は名古屋城に隣接する外堀筋(現在の外堀通)、南は堀切筋(現在の広小路通)、東は久屋町(現在の久屋大通南行)、西は御園町(現在の御園通。伏見通の一つ西筋)の範囲であった。御園町の西側には同時期に堀川が掘削された。この範囲は、現在の町名でいえば、丸の内と錦の地域に相当する。清洲越しにより、家臣、町人のみならず、神社・仏閣も社寺3社110寺、清洲城下の町屋約2700戸のほとんどが移転するとともに、清須城小天守も名古屋に移った。現在でも名古屋では、清洲越しを経験した旧家であることが、伝統と格式を示すものとされることがある。
出典:wikipedia
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