ファン・ダリエンソ(Juan D'Arienzo、1900年12月14日 - 1976年1月14日)は、アルゼンチン・タンゴのヴァイオリン奏者、オルケスタ・ティピカ(タンゴにおける典型的な編成の楽団)の指揮者。鋭いスタッカートによるリズムを強調した演奏スタイルで、今もなお根強い人気がある。1900年、ブエノスアイレスのバルバネーラに生まれる。父は実業家で、母の家系には音楽関係者が多かったという。8歳の頃からヴァイオリンを習い始め、13歳でプロ生活に入ったといわれる。20歳代では劇場オーケストラやジャズ・バンドなどで演奏していたが、1928年に独立し自身のオルケスタ(楽団)を組織した。しかしすぐに行き詰まり、「すぐ消えるだろう」とまで言われるほど低迷する。1930年代に入ると、世界的経済不況によりタンゴ楽団の活躍する場が大幅に失われ、代わってジャズが流行し始めた。ここでダリエンソはタンゴの命とも言われるリズムにこだわり、踊り手のために極端に激しいリズムを刻む演奏スタイルをとった。この独特のスタイルは「電撃のリズム」と称賛され、ダリエンソは「El rey del compás」(リズムの王様)という異名をとる。1935年、ピアニスト、ロドルフォ・ビアジの参加を得て、ますますリズムは鋭くなる。バンドネオンが刻む主旋律にヴァイオリンのオブリガートをかぶせるダリエンソ・スタイルは、この頃すでに確立されていたと言われる。7月2日、RCAヴィクトルに、専属第1号となる「HOTEL VICTORIA」(フェリシアーノ・ラターサ作曲)を録音する。以後、多くのグアルディア・ヴィエハ(古典曲)を取り上げて人気を博し、タンゴ界をよみがえらせた。この頃が、ダリエンソ楽団の第1黄金期とされる。1938年、ピアニストがビアジからファン・ポリートに交代したが、ほどなくしてダリエンソ本人以外の全員が脱退した。新たに当時19歳のフルビオ・サラマンカを迎えて再出発する。サラマンカの華麗な奏法はダリエンソ楽団の演奏に一層輝きを添え、アンサンブルも完璧なまでに充実してきた。メンバーとダリエンソ本人との確執は録音にも残されており、ダリエンソが示したテンポをほかの楽団員が次の小節から変えたテイクも存在する。タンゴの平均タイムは180秒だが、これをダリエンソは150秒にまで短縮した。ダリエンソの人気は常に最高で、まったく衰えることがなかったため、多くの批判者を招いた。伝統的でなおかつ現代的という性格を完全に満たしていたのが1940年代である。この時エクトル・バレラを第一バンドネオン奏者に引き抜き、「バリアシオンの音数を速度に合わせ限定する」という戦略は聴衆に爽快感すら与えた。そのため、第一から第五のうち第一は高音しか弾かないことになってしまい、バレラは「片手弾きさん」というニックネームがついてしまった。サラマンカを擁した1950年頃が、ダリエンソ楽団の第2期黄金期とされる。1957年、サラマンカの独立により、再びファン・ポリートがピアニストとして復帰する。人気は相変わらずで、レコードもよく売れた。1964年にはグァルディア・ビエハ(古典曲)中心のLP「EL REY DEL ESTEREO」を録音し、日本でも発売された。このアルバムでは、鋭いリズムはそのままで、テンポが以前よりゆったりとしており、風格を感じさせるものとなっている。1968年、ダリエンソ楽団は日本各地で公演を行った。ただ、飛行機嫌いの指揮者ダリエンソ自身は来日せず、メンバーだけの演奏となった。演奏そのものはスタジオ録音と寸分違わぬ密度の高いものであり、音楽に対する厳格な姿勢が表れている。1960年代に入ると、1950年代までのパワーはほとんど失われてしまったが、1920年代が部分的に回帰したかのような折衷的な表現を見せるようになる。最後の録音は1975年、RCAへの10曲である。これが、最後の指揮活動となった。タンゴの廃業者が目立つ中、死の直前まで第一線に立ち続けた名人であった。ダリエンソ独特の演奏方法で、フォルティッシモのスタッカートからいきなりピアニッシモに行くときに、音をかすかに残す楽団が多い中、ダリエンソはまったく音を聴かせない。まったく演奏していないにもかかわらず、まるでリズムを刻んでいるような感覚になるので、そのように呼ばれている。これはたとえば「」(ラ・クンパルシータ)や「El huracán」(エル・ウラカン(台風))の演奏が始まってすぐの部分に見られる。作品は多くないが、「El vino triste」 (エル・ビノ・トリステ)」 「Paciencia」(パシエンシア)などが知られている。また、王者ダリエンソにふさわしく、文字通りの「El rey del compás」(リズムの王様)や誕生日である「14 de diciembre」(12月14日)など献呈された曲もある。全録音が998曲のため、全曲のBOXはいまだ発売する気配がない。熱狂的な信者を生み、来日公演も本人不在ですらノーミスで大成功であった。その一方「"ダリエンソが死んだか、では生き返らないように気を付けようか"」と陰口をたたかれることもあった。Audio Parkは黄金時代のみ復刻、Buenos Aires Tango Clubは全ての時代をうまく選曲して復刻している。近代和声を全く用いないにもかかわらず全速力のアレンジを施しているため、バンドネオン奏者に負荷がかかりすぎるダリエンソスタイルは模倣不可能だという意見も強い。没後の人気もいまだに高い。
出典:wikipedia
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