鉄道ファン(てつどうファン)とは、鉄道、またはこれに関する事象を対象とする趣味(鉄道趣味)を持っている人のことである。以下は鉄道趣味とされる趣味の例である。それぞれの分野に熱中するファンは、〔 〕内に示すような愛称・俗称で呼ばれることがある。鉄道趣味に関するサークルが数多く存在する。鉄道趣味サークルの代表的なものが、学校のサークル活動・部活動の一つである鉄道研究部・研究会である。元部員・会員を中心に略して「鉄研」とも呼ぶ。活動中・休部中問わず全国の大学・高等学校・中学校にある鉄道研究部・研究会の数は数えるのが困難なほど多い。全国的な学校・サークルの連合組織といったものは日本には少ないが、神奈川県には、神奈川県高等学校文化連盟の一組織として、神奈川県高等学校鉄道研究部連盟(神奈川県高鉄連)があり、神奈川県内の高校の鉄道研究部等が加盟している。また、毎年行われる神奈川県高等学校総合文化祭において鉄道研究発表会を実施している。大学生においては、「関西学生鉄道研究会連盟(関西学鉄連)」が存在している。この種の組織はかつて日本各地にあったが、そもそも各サークル自体の人数が非常に少なかったためにサークル自体が廃部になり、必然的に連盟も解散へと追い込まれた。2010年12月には、千葉県にある5大学が加盟する「ちば学生鉄道研究会連合」が新たに発足し、今後の活動が注目されるほか、2013年に関東学生鉄道研究会連盟(関東学鉄連)が再起した。鉄道研究部の活動は各校異なるが、おおむね以下のようなものがある。学校レベルでの部誌の中には、一般書店の鉄道コーナーで販売されるものもある。部誌は白黒の単色刷りのものが多いが、一部にカラー刷りのものもある。研究発表活動は、取材の成果(写真・データなど)や鉄道模型の展示などが基本である。特に長い歴史と多大な活動実績を持つ鉄道研究部の中には、5大鉄道趣味雑誌(鉄道ファン、鉄道ジャーナル、鉄道ピクトリアル、レイルマガジン、鉄道ダイヤ情報)から執筆を依頼されたり、鉄道会社からイベントへの参画が来たりすることもある。鉄道ファンが悪いイメージに思われている中、。ある一つの学校の学生・生徒だけで構成される学校鉄道研究会だけではなく、一般に入会希望者を募り、活動している鉄道サークルもある。代表的なもので鉄道友の会や鉄道資料交換会(RSEC)、Rail-On(JR東日本公認のファンクラブ・2008年に解散)など。これらは貸切列車を仕立てた大規模な懇親イベントや鉄道模型の運転会、あるいは貴重な歴史的鉄道車両の保存・維持管理など、個人では不可能な活動を実現することを活動の目的としていることが多い。鉄道について学ぶ学校(鉄道学校)がある。東京都には昭和鉄道高等学校、岩倉高等学校という鉄道関係の学科を持つ高等学校が存在する。高校の授業として鉄道が学べることや、在学中にJR・私鉄駅での実習やアルバイト(私鉄のみ)までできること、鉄道関係各社局への就職率が高い等の理由で鉄道ファンの生徒も多い。東京近郊から遠く離れた地方から受験し入学する生徒もいる。ただし、これらの学校に入学できたからといって必ずしも鉄道事業者等へ就職するわけでなく(希望が叶わなかったり、もしくは逆に本人希望で)、卒業後に鉄道以外の分野の職業に就いたり、大学・短期大学・専門学校に進学する者も多い。また一般の高校から、または大学・短大・専門学校へ進学してから鉄道業界へ就職する者も少なくない。鉄道ファンにとって時刻表とは、単に時刻を調べるための道具にとどまらず、様々な使用法がなされる。主なものは以下のとおり。旅行の際、大判の時刻表を持っていくのはかさばるからと携帯版の時刻表を持っていく者も増えているが、それでも大型時刻表を持っていく者も存在する。その理由として、複雑な旅行計画を組む鉄道ファンにとって、旅行中に万が一ダイヤが乱れた際行程を立て直すためにはどうしても情報量の多い大型時刻表が要ること、また、列車の中や待ち合わせ時間に暇な際に情報量の多い大型時刻表を見るなどして時間つぶしをすることなどが挙げられる。人によっては、大判時刻表の必要な部分だけをちぎったり、コピーする者もいる。大型時刻表の発行元は交通新聞社とJTBパブリッシングの2社に現在では集約されたため、好みが大きく別れる。前者の「JR時刻表」はJR化以後の公式時刻表であり、優等列車が赤色表示なので分かりやすいこと、入線時刻や発車番線などの情報量が多いこと、後者の「JTB時刻表」は、国鉄時代において公式時刻表「国鉄監修交通公社の時刻表」として長い歴史があり、ページ割りも国鉄時代とほとんど同じであること、大都市近辺詳細図のページが会社別色別で見やすいこと、「グッたいむ」といった読者投稿コラムが載っていることなどを、それぞれ利点として挙げている。紀行作家の宮脇俊三は自著『時刻表2万キロ』において、自分の国鉄全線完乗を『「列車に乗る」のではなく「時刻表に乗る」』と評している。最近は(社)鉄道貨物協会発行の「貨物時刻表」が貨物列車を撮影する鉄道ファンの必需品となりつつある。鉄道趣味、特に鉄道写真においてはカメラは欠かすことのできない道具である。望遠から広角まで様々な種類のレンズが必要になるため、一眼レフが好んで用いられる。特に一本限りの臨時列車など、一発勝負でミスできない撮影のために、プロ並みに複数のカメラを同時に準備する例もある。通勤中などに不意に変わった車両や変わった運用を目撃したときのため、小型軽量で携行の容易なコンパクトカメラを欠かさず携帯する鉄道ファンもいる。ただしカメラ付き携帯電話の普及で、これで代用するケースも増えている。そのほかに脚立と三脚も使うと便利である場合があり、有名な撮影ポイントやプラットホームの先端部分では三脚を立てたファンが集い、熾烈な場所取り合戦を展開することもある。ただし、混雑したり幅が狭いプラットホームにおいて三脚を立てるのはマナーの悪い行為とされる。このため、鉄道会社側でも駅での三脚・脚立の使用自粛を求める動きが強まっている。駅でなくても、線路沿いの交通量の多い道路などで脚立を使うのは、迷惑行為であると同時に危険行為でもある。鉄道写真を趣味とする鉄道ファンはカメラメーカーのよい「お得意様」である。そのため、カメラメーカーが鉄道ファンを支援することもある。例えば富士写真フイルムは、「いい旅チャレンジ2万キロ」を後援していた時期もあり、キヤノンは、ファン雑誌でのコンテストを協賛している。鉄道趣味誌にカメラメーカーが広告を掲載することは現在でも多い。大多数が男性である。かつて(1990年代以前)は女性は皆無に近かったが、現在は女性ファン、若い年齢層の女性のファンも増す一方で、まとまった数がいる。年代層は青少年から高齢者まで幅広い。幼年期の子供は、多くが鉄道などの乗り物に興味を示すが、徐々に他の多様な対象に関心を移していく人々も多い。しかし、一部の人々は乗り物の中でも鉄道に対する興味を特に深めていき、「鉄道趣味」と呼ばれる趣味を楽しむようになる。なお、鉄道ファンが父親・母親となった場合にも、子供にこの趣味を教え込むこともある。新ジャンルとして「ママ鉄」というジャンルがある。日本における「鉄道ファン」に対する呼称は一様ではなく、時代や文脈によってさまざまに分かれている。以下、呼称について各呼称ごとにその由来・時代変遷を述べる。日本の鉄道ファンは、その対象を日本国内の鉄道のみとしている人が多く、日本国外の鉄道を趣味の対象としている人は多くはない。その理由としては、次のようなものが挙げられる。かつては「鉄道雑誌以外に、日本国外の鉄道の情報を得る手段がないから」と言われたこともあった。しかし現在では、インターネットの発達により、以前に比べて情報量や即時性の面で劇的に改善されているため、(語学力の問題はあるが)「情報の少なさ」という理由は以前に比べ緩和されていると言える。(定量的なデータではなく、あくまで定性的なものであるが)日本の鉄道ファンが、日本国外の鉄道に興味を示さない傾向が強いのは、鉄道雑誌において「日本国外の鉄道を特集に取り上げると、売り上げが落ちる」「日本国外の記事はいつも人気がない」と言われていることからも窺い知れる。日本の鉄道ファンが日本国外の鉄道を趣味の対象とする場合でも、その対象はヨーロッパ(特にフランスやドイツ)、あるいは日本統治の歴史があり地理的に隣接している台湾や韓国、樺太など、きわめて少数の国・地域に偏っている傾向がある。さらに、高速鉄道や観光鉄道など、日本で露出度が高い鉄道だけを趣味の対象としている場合も少なくない。ただ2000年代に入ってからは、日本の鉄道の近代化・合理化が進んだこと、ローカル線の縮小が進んでいることなどの理由で、きわめて少数ではあるが、現在の日本の鉄道に興味を失い、日本以外の鉄道に関心を抱く向きも存在する。また、かつて日本で運用された車両が国外の鉄道事業者に譲渡されるようになったことや、格安航空券の普及で日本国外への旅行にハードルの高さを感じなくなったことにより、日本国外の鉄道へのハードルは下がっている。長年鉄道ファンを続けてきたリタイア層が、金銭的な余裕も持ち合わせていることにより、日本の鉄道のみならず国外の鉄道を見聞するために旅行するといった現象も起きている。こういった層をターゲットとした旅行商品も用意されるようになり、一般観光旅行より高額にも関わらず、多くの参加者を集めるという現象も起きるようになった。欧米では保存鉄道や保存車両の運営、維持にボランティア活動や資金カンパなどを行っている鉄道ファンが存在する。保存鉄道は、イギリスやフランスなどで特に盛んである。アメリカでは廃車された車両を修繕し展示や運転を行うグループが存在する。国や地域によって、ファンの活動にも温度差がある。南欧や東欧方面では、法律によって鉄道施設の撮影などが制限されているところもある。インドやブラジルなどの「新興経済国」では、さまざまな要因により鉄道趣味への制約が存在し、発展途上国に至っては「鉄道趣味」という概念自体が存在しないことも少なくない。欧米では「鉄道オタク」・「鉄道マニア」を意味するスラングが存在する。英語圏では、一般的な「マニア」を意味するGeek、Nerd、アメリカで用いられるFoamer、イギリスで用いられるTrainspotter、Anorak、Crank、Grizzer、Gricer、オーストラリアで用いられるGunzel(きわめて強い侮蔑を含む)などがある。これらは侮蔑的な意味を含む。いずれも、鉄道に対して過度に熱中し、あるいは、見境なく暴走、はては迷惑行為を行い、社会的適応力に欠ける鉄道ファンを揶揄する言葉である。2001年9月11日の同時多発テロ事件以降、アメリカでは列車撮影目的の鉄道ファンが警察官からの尋問を受ける事例も生じている。鉄道趣味に関する活動の中でマナーをわきまえず、迷惑行為を繰り返す者もいる。車内や駅構内で他の乗客の迷惑も顧みずに撮影や録音等をする、駅構内で大音声で罵声を上げる、三脚や脚立を持って走り回る、撮影のために他人の土地に無断侵入する、撮影地でゴミを持ち帰らずに放置したり、移動のために用いる自家用車やバイクを駐車禁止区域に駐車したりするなどのほか、鉄道会社の展示物や備品を盗むという犯罪すら発生している。これら、悪質なファンの行動を原因とする一般の乗客や鉄道沿線の近隣住民とのトラブルも少なくない。また、一部の鉄道会社ではこれらの迷惑行為を考慮してファンサービスの企画(動態保存車両の特別運転や車両基地の一般公開など)を縮小、もしくは、一切行わない会社も出てきている。日本でこのような迷惑行為が増加したのは、1970年代の蒸気機関車全廃に伴う「SLブーム」でファンが著しく広がり、それに続く「ブルートレインブーム」で若年層がより流入したことが原因であると考えられている。この時代、列車撮影が盛んになるとともに、撮影名所での場所取り・不法侵入・危険な区域への突入・破壊窃盗行為・列車妨害等々の無法な行為や、過熱した鉄道ファンが沿線で夜行列車撮影のために深夜徘徊することが問題になった。なお、現在では中高年のマナーの悪さもみられ、世代のみの問題ではないといえる。鉄道ファンは、自動車ファンなどと異なって、趣味対象を直接所有することはきわめて難しい。鉄道関係のイベントで解体された車両の備品などを購入できたり、車両そのものを譲渡あるいは寄贈してもらったり(斎藤茂太など)するケースはあるが、後者には相応の資金力やコネクションが要求される。こうしたためもあってか、保存車両や鉄道敷地内の備品が盗まれることがある。イベント列車などの運転、路線の新設あるいは廃止の時などでファンが集まる際、上記の如くマナーに欠ける者の迷惑行為により、鉄道ファンに対する世間の評価を低下させているのが現状である。以下は迷惑行為の例である。2007年にJR東日本千葉支社でのD51形運転の時に、立入禁止区域である鉄道施設に複数が侵入し、中には単に「蒸気機関車が走る」という珍しさから立入禁止区域での撮影を試みた者もいた。また、碓氷峠鉄道文化むらでは、転売目的で保存車の部品が盗まれた。また、2008年にJR東日本千葉支社でのC57形運転の時にも上記のような鉄道運行妨害があった。2009年12月5日に行われた常磐緩行線207系900番台のさよなら運転では、沿線で撮影していた鉄道ファンとみられる者らが線路内に立ち入り、二度にわたって緩行線・快速線の営業列車もろとも緊急停止させるという事態を発生させた。2010年1月24日の京浜東北線・根岸線209系電車最終運行では、先頭車は大声で騒ぐ鉄道マニアで異常に混雑し遅れが発生。また、そのような専用車両の設定は無いにも関わらず勝手に悪ふざけで「鉄ヲタ専用車両です」と一般の乗客に向けて自称するなどの行為があった。また、平城遷都1300年記念事業の一環として、2010年5月9日に運行した臨時特急列車「まほろば」撮影のために線路内にカメラの三脚を置いたため、一部列車を部分運休、最大16分の遅延を発生させたとして、奈良県警察は西日本旅客鉄道(JR西日本)からの被害届は出ていないが、6月3日に鉄道営業法違反の疑いで書類送検する事態になった。2010年2月14日、JR西日本関西本線(大和路線)三郷駅 - 河内堅上駅間および、河内堅上駅 - 高井田駅間の2か所で、カメラを持った鉄道ファン数名が線路内に侵入したため一時運転を見合わせ、上下線計19本が運休、計26本が最大約40分遅れ、約1万3千人に影響した。当日は団体貸切列車として和式車両「あすか」が運転され、撮影目的の鉄道ファン約50人が沿線に集まっていた。現場に停止した列車の運転士などJRの社員が退出を求めるが、応じない者もおり、警察官が出動する事態になった。なお、逮捕者はいなかった。この事件でJR西日本は大阪府警察に被害届の提出を検討。17日に行われた定例社長会見で被害届の提出を見送ることを表明した後、最終的には被害届を提出し22日に捜査が行われた。当初は、威力業務妨害や列車往来危険での容疑を検討していたが、列車を止める意図はなかったとして鉄道営業法違反に絞って捜査が行われている。なお、JR西日本広報部によれば、「鉄道ファンの立ち入りで被害を申告したケースは記憶にない」とのことである。なお、「あすか」の運転による事件は2月20日にもあり、東海道本線(琵琶湖線)草津駅 - 南草津駅間で、線路脇に三脚を持った不審者がいたために他の営業列車が緊急停止するという事態が発生している。相次ぐ鉄道ファンのマナー違反事件を受け、交友社が刊行する鉄道雑誌『鉄道ファン』でも公式サイト上でマナー遵守を求める声明と警告を発表する事態になった。2010年4月に鉄道敷地内に入り込んでいた鉄道ファン数名を撮影した写真が一部の報道機関や大阪府警に送付されていたことが明らかとなり、警察側ではこの情報などを元に侵入したグループの特定を進めている。野村総合研究所オタク市場予測チーム による「オタク市場の研究」(東洋経済新報社)によると、鉄道ファンは約3 - 5万人、市場規模は40億円と推定されている。趣味の分野によってつぎ込む金額は異なるが、模型、コレクションの分野では支出額が大きくなると分析されている。2007年には、ドラマ「特急田中3号」、アニメ「鉄子の旅」、鉄道趣味を取り上げたテレビ番組が放送されるようになり、また団塊の世代の定年退職後に鉄道ファンとなる人など、市場の拡大を期待しているケースもある。ただし、同研究所の報告では、鉄道趣味は「販売数・利用者数の減少による商品供給の鈍化」「新規利用者が減少」により、「安定・衰退期」にある趣味と分析しており、市場規模は今後は縮小、良くて横這いになると分析している。鉄道を趣味の対象とする行為の歴史は古く、鉄道の歴史とともに始まったといわれる。ただし明確な「鉄道趣味人」の登場までには少しばかり時間がかかったようだ。詩人・童話作家の宮沢賢治は鉄道に関心を持ち、自作の中に多くの鉄道を用いた描写があるが、現代的な意味での「マニア」とはいささか異なる。明確に「鉄道を職業とは異なるレベルで探求する」という人物は1902年から1907年にかけて全国の鉄道写真を撮影して回った岩崎輝彌 (1887 - 1956) と渡邊四郎 (1880 - 1921) をもって嚆矢とするといわれる。この2人が写真家の小川一真に依頼して撮影した膨大な写真は、「岩崎・渡邊コレクション」として鉄道博物館に所蔵されている。この両名のように広く名前が知られることはなかったものの、鉄道に関心を示し、個人的に探求を行った人物が他に存在する可能性も指摘されており、たとえば横浜で酒屋を経営していた田島貞次(1889 - 1957)は明治30年代以降に京浜間を走っていた蒸気機関車を詳細に観察して晩年にその証言を残したという。鉄道創世期からにおける「鉄道マニア」は経済的に裕福な層が中心となっている。岩崎輝彌は三菱財閥創始者の岩崎家の一員であり、渡邊四郎は渡邊銀行創立者の一族である。また、大正時代にすでに機関車や一等車を趣味で乗り比べていた内田百は陸海軍の学校や大学で語学を教える教授だった。当時の一般庶民の生活水準を考えると、鉄道趣味を含めた、今日的な趣味を行うだけの余裕はなかった。一般庶民のなかに鉄道趣味が浸透するのは、さらに時代が下ってから(一般的には1970年代以降)になる。昭和初期には「鉄道」(1929年)「鉄道趣味」(1933年)「カメラと機関車」(1938年)といった鉄道趣味を専門とした雑誌や書籍も発行されるようになった。もっとも、これらは流通機構に乗って発売されていたわけではなく、発行部数も読者数もきわめて僅少であった。この頃から活躍していた鉄道趣味人としては西尾克三郎、高松吉太郎、亀井一男、本島三良、宮松金次郎、杵屋栄二らが挙げられる。彼らは鉄道写真の大家としても成し、膨大な写真コレクションの数々は今でも十分活用されている。しかし、昭和10年代になり、国内が次第に軍国主義に傾いていくと、鉄道の軍事的側面が重視されるようになり、軍事機密保護上の理由で高所からの撮影が禁止となるなど、鉄道趣味に対する制約が厳しくなっていった。また戦時体制により用紙の統制が進んだこともあって、「鉄道」「鉄道趣味」は1937年-1938年に相次いで廃刊に追い込まれた。その後、関東・関西で趣味者の同人会が立ち上げられ、1940年に関東では「つばめ」、関西では「古典ロコ」という会員制の同人誌が発行されたが、これらも翌1941年に終刊となり、以後は太平洋戦争の終結まで鉄道趣味活動は事実上、不可能となったのである。だが、一部の鉄道趣味者は、厳しい看視の目をかいくぐり、涙ぐましい努力と危険を冒しながら趣味活動を続行していた。公共機関の輸送力は軍事機密であったため、駅構内などで鉄道車両に直接カメラを向けたり、車両番号をノートに書き留めたりする行為は完全に禁止(不可能)となった。もし見つかれば、スパイ容疑による厳しい取調べが待ち受けていた。当局の許可を得てようやく撮影した写真も、検閲により容赦なく葬り去られるなど、鉄道趣味の暗黒時代であったが、周囲の目をごまかすため、数学の教科書の行間に車両番号を書き留めたというエピソードはよく知られている。また、戦争による影響はこうした趣味活動の面のみにとどまらず、戦前に趣味者が蓄積・収集した写真などの記録や各種資料が空襲により焼失したり、終戦直後の外地からの引き揚げの際にやむなく放棄されたりして多数失われている。終戦後は国内情勢が混乱していたとはいえ、鉄道撮影に関する制約が少なくなったため、戦後間もない頃でも多くの鉄道写真が一部の趣味者により撮影されている。また、進駐軍が持ち込んだカラーフィルムの一部が日本人向け市場に流れ、鉄道趣味者の手に渡ってカラー写真による鉄道の記録が残されるようになるのもこの頃である。当時のカラーフィルムは高価で品質や性能も良くなく、感度が低く光線漏れが起こりやすい上に経年により退色しやすかったため良質のカラー写真は数が少ないが、近年ではコンピュータによる画像補正技術の進歩と普及により、劣悪であった当時の写真が貴重な記録として日の目を見るケースも多くなっている。1946年頃からは関東・関西を中心に趣味者の同人会が立ち上げられ、同人誌が発行されるようになった。1947年には戦後初の鉄道趣味雑誌として「鉄道模型趣味」が創刊されている。これは本来は鉄道模型の専門誌であるが、実物の鉄道車両に関する記事も掲載されていた。1951年、はじめて一般流通機構に乗った鉄道趣味雑誌「鉄道ピクトリアル」が創刊された。また、内田百が1950年から発表した『阿房列車』シリーズは、鉄道紀行文学の先駆といわれる。1953年には日本初の全国規模の鉄道愛好団体である鉄道友の会が設立された。また、旧華族で昭和天皇の皇女・孝宮と結婚した鷹司平通(乗り物通として知られていた)が交通博物館の館長になったりもした。交通博物館が秋葉原に近い神田にできたことで鉄道マニアが集結する場所は秋葉原が拠点となり、他の全くジャンルの違うマニアにも秋葉原の集結の影響を少なからず与えた。現在でも鉄道趣味の情報発信基地は秋葉原と言われることも少なくない。1960年代に入り、高度経済成長の中、東海道新幹線の開業や、鉄道車両・設備の更新が急速に進められ、秀逸な車両が次々と投入される。だがそれは同時に古い車両の淘汰が進められることと表裏一体であった。またこの時代、道路網の整備とバス路線の拡充により、全国各地の地方私鉄が廃業に追い込まれていった。このような時代背景の中、鉄道趣味といえば鉄道車両・列車とそれに伴う鉄道撮影が主体であった。切符収集などもあったが、少数派であった。鉄道趣味雑誌としては「鉄道ピクトリアル」に続き、1961年には「鉄道ファン」、1967年には「鉄道ジャーナル」が創刊された。これらも記事の中心は鉄道車両や列車であった。1962年からは「鉄道ピクトリアル」誌上に廃線に関する記事も掲載され、廃線跡趣味の嚆矢ともなった。1970年、「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンが始まった。1970年代に入ると蒸気機関車の減少が社会的関心事となり、多くの人々が蒸気機関車の見物や撮影を行うようになった。いわゆる「SLブーム」である。これに乗じた形で1972年に新たな鉄道趣味雑誌「SLダイヤ情報」(1976年に「鉄道ダイヤ情報」に改題)が創刊された。同年には、日本の鉄道開業100周年を記念して、日本初の蒸気機関車動態保存施設「梅小路蒸気機関車館」が、京都市の梅小路機関区の扇形庫を利用して開設され、日本の近代型蒸気機関車16形式17両が同館に収められた。1976年に蒸気機関車が全廃されると、今度は現在では減少が進む客車寝台特急列車(ブルートレイン)を撮影する人々が増えた。いわゆる「ブルートレインブーム」であった。このSLブームとブルートレインブームにより低年齢層を中心に鉄道ファンが急増したが、反面、鉄道ファンの質的低下を問題視する声も出るようになった。もっとも団塊世代が趣味の中心だったSLブームと違って、ブルートレインブームは趣味人の中心が小学生・中学生であったためか、休日や休日前日の深夜の駅での撮影など風紀上の問題はあったが、マナーの問題はさほど出なかった。さらに1978年10月のダイヤ改正で国鉄の特急電車に絵入りヘッドマークが採用されると、そちらも人気を集め、多数の特急が発着する上野駅のホームでは休日となると、撮影に訪れたたくさんの少年ファンで賑うようになった。1978年に宮脇俊三が国鉄全線完乗を達成し、その過程を綴った『時刻表2万キロ』を発表した。さらに国鉄が「いい旅チャレンジ20,000km」キャンペーンを実施したことや、宮脇のほかに種村直樹の執筆活動もあって、鉄道旅行が鉄道趣味の一分野として定着してきた。また当時は国鉄分割民営化という、当時としては世界にも類を見ない巨大事業が進められていたことや、川島令三などの執筆活動の影響により、独自の理論を構築する鉄道ファンも増加した。鉄道に関する書籍も様々な視野からのものが発行されるようになったことや、情報技術(IT)が普及し、ニフティサーブの鉄道フォーラムやネットニュースのfj.rec.railなどによって情報発信・閲覧が容易になったことなどから、次々と新しいタイプの趣味が生まれ、鉄道趣味の多様化が進んだ。1995年頃からWindows95の発売などもあって個人で鉄道趣味に関するウェブサイトや電子掲示板を開設する愛好者も増加していった。この時代の特徴として、新幹線が鉄道趣味として一躍メジャーになったことがあげられる。これは新規路線の開業が相次いだこと、JR各社が用途に応じた新型車両や改造車を次々に導入したことにより車両のバリエーションが一気に豊かになったことが理由である。インターネットのさらなる普及により、1990年代後半以降に見られた趣味者による個人ホームページ・電子掲示板の開設がますます進んだ。また、画像や音声のデジタル化技術の進歩やYouTubeやニコニコ動画などをはじめとした動画投稿サイトが台頭してきたこともあって、撮影した鉄道画像や録音した鉄道音声の公開・投稿が盛んに行われるようになった。さらには鉄道趣味専門のポータルサイトや電子掲示板サイトを運営する者も現れた。これらによって情報が即時に鉄道ファン同士で交換できる環境が整い、素早く鉄道情報が入手できるようになった。また、103系、113系、485系、24系等、鉄道ファンに特に人気のある国鉄形車両の廃車が相次いだことにより、これらの国鉄型車両のファンも増えている。鉄道ファン向けの雑誌も多数刊行されている。日本国外でも鉄道雑誌は発行されている。ただし日本と異なり、国によっては数多くの雑誌が発行されており、また、「都市鉄道」「路面電車」「庭園鉄道」など、特定の分野に特化した雑誌が多い。
出典:wikipedia
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