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震災復興公園

震災復興公園(しんさいふっこうこうえん)は、大地震によって被害を受けた都市において、防災用緑地の機能、災害時避難場所の確保、あるいは震災復興のシンボルなどを目的として設置された公園である。ここでは関東大震災後の帝都復興事業によって東京に計画、設置された公園群について記述する。大正12年(1923年)の関東大震災による被害状況を受けて、帝都復興院総裁となった後藤新平(内務大臣を兼務)を中心とする政府主導で計画された震災復興再開発事業は、東京市の防災都市化にその主眼を置いていた。特に地震によって発生した火災による被害は甚大であり、延焼を食い止める防火帯の設置が重要な課題となった。昭和通りなどの幅員の広い幹線道路の建設と並んで、公園の確保に重点が置かれ、復興局公園課の折下吉延らにより、東京に三大公園(隅田公園、浜町公園、錦糸公園)が設置された。中でも隅田公園は、近世以来の名所であった桜堤と旧水戸藩邸の日本庭園を取り込み、和洋折衷の大規模な公園となった。三大公園には含まないが、昭和5年(1930年)に完成した横網町公園には、関東大震災の身元不明遺骨を納める震災記念堂と復興事業に関する資料を保存・展示する復興記念館が建設され、メモリアルパークの役割を果たしている。また、井下清率いる東京市公園課は、小学校を不燃化、耐震化された鉄筋コンクリートの校舎にして、小公園を併設させることにより防火帯と避難施設の役割を持たせようとした。これにより、小学校とセットになった小公園が東京市内52箇所に設置され、各地域における防災都市としてのシンボルとした。小公園は、隣接する小学校の校庭を兼ねるとともに、地域コミュニティの中心的存在となっていく。いずれもドイツや北欧の公園を参考に設計され、庭園風の趣ある近代的な公園であった。現在の公園は、戦後の改修で体育館が設置されるなど、開園当時の面影はほとんど失われており、門柱などにかろうじて当時の遺構を残すのみとなっている。特に隅田公園の墨田区側には首都高速道路が開通し、桜並木の情緒を半減させている。当初は、焼失区域のすべての小学校区に公園を隣接させようとしたが、半数に届かない52箇所に止まった。小公園の建設・設計理念は以下のようなものであった。震災後、欧米を視察した井下清は、近代的・合理的な態度で設計に臨み、小公園のあるべき姿を新しい様式として示した。しかし戦後、小公園の管理が東京都から特別区へ移管されると、世相の変化とともに相次いで改修が行われた。多くの小公園が、プレイスカルプチャーが所狭しと並ぶ児童公園という位置づけとなり、いつの間にか小学校とも隔離された存在となってしまった。教育と公園は行政の中で、それぞれ独立した存在となり、学校公園の考え方は忘れ去られてしまっている。52小公園の現存状況については、かなりの数の公園が消滅や縮小の憂き目にあっており、名称のみで完成当時の姿を完全に残すものはひとつもない。京橋公園(千代田区、昭和4年開園)のコンクリート製滑り台や元加賀公園(江東区、昭和2年開園)の壁泉付露床など一部の造形物が残るのみである。文京区本郷にある元町公園(昭和5年開園)は、昭和57年(1982年)に伊藤邦衛によって原型に忠実な改修が行われ、当時の設計思想を現在に伝える唯一の小公園となっている。復元されたモダンなデザインの擁壁や壁泉、太い円柱が印象的なパーゴラ(つる棚)、左右対称の2連式滑り台などは、いずれも小公園の特徴的な様式である。隣接する元町小学校は、平成10年(1998年)に本郷小学校との統合化により廃校となっており、 校舎の解体に伴って元町公園も取り壊し、総合体育館を建設する計画が文京区によって進められている。

出典:wikipedia

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