猿猴橋(えんこうばし)は、広島県広島市の猿猴川にかかる道路橋。広島市管理の現存する橋梁のなかでは最古のもの。被爆橋梁の1つである。土木学会選奨土木遺産。橋名の由来は「猿猴川に架かる橋」からであり、猿猴とは河童の一種。左岸側の猿猴橋町や広島電鉄の猿猴橋町停留場の由来はこの橋である。最初の架橋は安土桃山時代、広島城城下町が整備された頃である。江戸時代は西国街道筋、近代は国道筋の橋だった。広島駅開業当初は市内中心部へ向かう唯一の橋でもあった。1926年に鉄筋コンクリート桁橋として永久橋化。1945年原爆被災(爆心地より約1.82km)。2016年現在、京橋・栄橋・比治山橋・荒神橋・観光橋と共に、現存する被爆橋梁である。金物飾りは2016年に復元されたもの。1926年竣工当時にあったが、太平洋戦争中に金属類回収令により撤去されそのままとなっていたところ、住民運動により復活復元された。橋名を記した四隅の親柱の上に地球儀に乗り羽ばたく大きな鷲の像が、欄干には猿猴二匹が向かい合って1つの桃を掲げている飾りがついている。中国国分によって山陰道・山陽道のそれぞれ西部に広大な領地を有した安土桃山時代の大名毛利輝元は、九州征伐の終わった天正15年(1587年)以降、西国の政治的安定を背景に、本拠地を山間部に立地する安芸国吉田郡山城(広島県安芸高田市)より、水上交通に適した太田川水系の河口部に位置する安芸広島(広島県広島市)に遷した。新しい居城となった広島城(広島市中区)は天正19年(1591年)に完成し、輝元は同年1月8日に入城した。いくつか小集落があったもののほとんど何もない海浜だった広島であったが、その際に城下町が整備された。猿猴橋が最初に木橋として架橋されたのはこの頃である。江戸時代に描かれた毛利氏時代の町割絵図『芸州広嶋城町割之図』にも描かれており、広島市が公開する資料では天正17年(1589年)頃あるいは天正19年(1591年)としている。建設当時は「猿郎(えんろう)」の古語である「ゑんろう橋」「ヱンロウ橋」と名付けられた。猿郎とは、毛利氏旧居城の吉田郡山城そばの可愛川に「河太郎(がたろう)」という妖怪がおり、これと猿猴が合わさって(猿猴+河太郎)呼ばれだしたとされている。関ヶ原の戦いののち毛利氏の後に広島城主となった福島正則の時代に、猿猴の古語である「ゑんかう」「ヱンカウ」に名を改めている。福島氏時代にこの付近も整備され、山沿いを通っていた山陽道(西国街道)を城下に引き込み、この橋は西国街道筋の橋となった。さらに福島氏により猿猴橋町が整備されていった。福島正則の改易によって浅野長晟が広島に入部し、寛永12年(1635年)の武家諸法度によって参勤交代が義務化されると、猿猴橋は京橋(広島市中区・南区)とともに浅野氏広島藩の参勤交代ルートとなった。江戸時代当時は防犯上の理由により橋の架橋は制限されており、この橋は猿猴川に唯一架けられた西国街道筋の橋となった。猿猴橋町は東側から広島城下に入る玄関口として宿場町に発展、京橋町付近は魚屋や市場が並んだ。明治時代に入って、國道四號(現在の国道2号)筋の橋となる。木橋として最後の再架橋は明治19年(1886年)、長さは35間(約63.6m)。地元住民により架橋されたものの、往来が激しい橋であったことに加え水害による被害も多発していたため、幾度か修繕しながら使い続けていたことから、木橋から頑丈な橋への永久橋化が望まれるようになった。明治27年(1894年)、日清戦争勃発、広島城内に広島大本営が設置される。東京から行幸してきた明治天皇は広島駅からこの橋を通り大本営へ入っている。大正14年(1925年)6月起工、大正15年(1926年)2月鉄筋コンクリート桁橋として架け替えられた。施工業者"妻木組"の妻木伊三郎の私費により金物で飾られた贅を尽くした美しい橋に仕上がり、その様子は「広島一」「西日本一」と謳われ、同年3月16日に開通式が盛大に行われ、渡り初めには遠方から大勢の人が詰めかけ約1万人が見守ったと伝わる。なおこの時期は広島市中心部での国道のアスファルト舗装と永久橋化が進められ、同年に己斐橋、翌年に京橋が架け替えられている。また当時主要国道のわりには幅員が狭かったと指摘されている。金属製の飾りはその後、太平洋戦争中に金属類回収令によって昭和18年(1943年)には取り外され、その後は石製の飾りが据えられた。昭和20年(1945年)8月6日広島市への原子爆弾投下により被爆。爆心地より約1.82kmに位置した。爆風方向に架かっていたため一部欄干の破損があったものの、落橋にはいたらなかった。そのため、広島市内から当時救護所に指定されていた東練兵場(右地図参照)への避難経路として用いられた。その際、橋のたもとには警官が立ち、市中心部への立ち入りを禁じたという。戦後、欄干は一部補修されたが、その際には原爆死没者慰霊碑にも用いられた高級花崗岩の庵治石が採用されている。昭和31年(1956年)駅前大橋の完成にともない主要幹線から外れたため交通量は減ったが、その後も現在に至るまで地元住民の生活道路・橋梁として使用されている。橋を管理する広島市は現在、被爆橋梁という歴史的に意義のある橋ということから、市は管理する全2818橋の中でも優先的に維持管理を行っている。平成23年(2011年)には土木学会選奨土木遺産に選定された。2000年代に入り、地元住民を中心に親柱・欄干を大正期の架設当時のデザインに復元する運動が起こることになる。平成20年(2008年)6月には親柱上の鷲像の小型模型が発見され、同年11月には広島市立大学の協力を得て復元模型が完成した。さらに平成21年(2009年)3月、正式に「猿猴橋復元の会」が結成され、復元費用の募金活動などがおこなわれてきた。そして平成26年(2014年)広島市による「被爆70周年記念事業」の一環として市の予算での復元が正式決定、平成28年(2016年)年3月完成した。総事業費4億1千万円、施工は宮川興業。同年3月28日、大正時代の渡り初め式を再現した「えんこうさん」が行われ、地元住民・県知事・市長・広島東洋カープ・アンジュヴィオレ広島が参加した。左岸側はJR広島駅前にあたり、2014年現在エールエールB館の工事が行われている。かつては愛友市場・猿猴橋市場、被爆建物旧住友銀行東松原支店など古い店舗が存在していた。上流側に駅前通りの駅前大橋、下流側に広島電鉄本線が通る荒神橋がある。昔は西へ道沿いにまっすぐ進むと京橋にたどりついたが、駅前通り(広島市道駅前吉島線)改良に伴い直進できなくなった。猿猴橋から平和橋までの猿猴川右岸側は、「猿猴川アートプロムナード」として佐々木葉二のデザインで整備された。江戸時代から少なくとも大正時代初期にかけて、猿猴橋東詰の西国街道筋つまり当時の国道2号筋にマツ並木が存在し、当時「いろは松」と呼ばれていた。最初の植樹は慶長年間、つまり猿猴橋架橋後に西国街道として整備されだした時期のことである。江戸時代には広島東照宮への参道の入り口にあたることから、下馬し通行する習わしとなっていた。いろは松は幾度か枯れ明治時代に植え直され大正時代初期には存在していたものの、現在は存在していない。猿猴橋上流側には昔、水道橋が存在し、長い間市内最古の水道橋として使用されてきた。1897年(明治30年)4月5日着工、同年7月29日竣工。市内最古の浄水場である牛田浄水場建設の際に作られた水道橋であり、元々は日清戦争以降に兵站拠点となっていた宇品へ上水を送る「広島軍用水道」の水道管だった。当時のルートは、牛田、大須賀から南下してきた水道管がこの橋を渡り市内方向へ進み、京橋東詰で再び南へと向かい宇品港へと進む。以下、竣工当時の諸元を示す。1945年8月被爆(爆心地から約1.8km)、同年9月の枕崎台風と2度の大きな災害にも落橋を免れた。その後直されて使用されてきたが、2005年(平成17年)9月台風14号による洪水で一部橋脚が洗掘により沈下してしまい使用停止。2007年(平成19年)に全撤去された。現在、水道管および橋脚の一部は牛田浄水場内の水道資料館に展示されている。
出典:wikipedia
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