羅瑞卿(らずいけい、1906年5月31日 - 1978年8月3日)は、中華人民共和国の政治家、軍人。元の名は其栄。大将。毛沢東の忠実な取り巻きであったが1965年、文化大革命で失脚した。文化大革命終了後に名誉回復するが、直後の1978年に死去。1924年、南充中学に入学。1926年6月、成都実業專修学校に入学。1926年10月重慶に赴き、同年中国共産主義青年団に入り、同時に中央軍事政治学校(黄埔軍官学校)に学んだ。1928年10月、呉玉章()の紹介で中国共産党に入党。1929年、中国工農紅軍に参加。以後、閩西(福建省西部)遊撃大隊大隊長、紅四軍参謀長、縦隊政治委員、師団政治委員、軍政治委員、紅一軍団保健衛生局局長、中央紅軍先遣隊参謀長、陝甘支隊第三縱隊政治部主任、紅一方面軍保衛局局長、中央ソビエト紅軍大学教育長、副校長を歴任する。1933年、二等紅星奨章を受章。1934年秋、長征に参加する。日中戦争の時期、中国人民抗日軍政大学教育長、副校長、八路軍野戦政治部主任を務める。対日戦勝後、北平軍事調処執行部中共代表団参謀長となり、葉剣英の国民党及びアメリカ代表との交渉を助力した。国共内戦中、中共晋察冀中央局副書記、晋察冀軍区副政治委員兼政治部主任、晋察冀野戦軍政治委員、華北军区政治部副主任兼第2兵団(後に第19兵団)政治委員を歴任し、正太、石家庄戦役を指揮した。平津戦役中、楊得志等が率いる部隊と共に、新保安の国民党第35軍を包囲し、北平を平和的に解放するのに重要な役割を果たした。1949年春、太原戦役に参加。中華人民共和国成立以後、中共中央政法委員会副主任、国務院政法弁公室主任、公安部部長、政治法律委員会副主任、公安軍司令員兼政治委員、北京市公安局長。1955年、大将の階級を授与される。1959年以降は、国務院副総理、国防部副部長、中央軍委秘書長、中国人民解放軍総参謀長、国防工業弁公室主任、中央軍委常委を兼任する。実務としては、毛沢東の腹心として、警備責任者を務めていた。毛沢東から「羅長子(ルオチャンツー)」との愛称で呼ばれており、1965年に失脚するまでは常に毛沢東の忠実な部下として任を果たし、毛沢東にとっても最も信頼する部下の一人だった。1955年の反革命粛清運動の際には作家胡風を逮捕し、政治監獄(秦城監獄)に投獄している。人民解放軍総参謀長時代には、毛沢東の伝令役として、時には国防部長の林彪を飛び越して人民解放軍に指示を出すこともあった。林彪が病気がちで、常に指揮を取れなかったという事情もあった。その国防部副部長となり、1961年11月、国防工業弁公室主任を兼任した。1964年、賀龍等の軍高官と共に、全軍の練兵と競技会(比武)を指導し、大きな成果を収めた。また、軍政一致を堅持し、マルクス・レーニン主義の学習を提唱し、毛沢東思想の低俗化に反対した。1965年、毛沢東は国家主席劉少奇に実権を奪われつつあった。劉少奇は、賀龍や羅瑞卿を抱き込んで軍をも掌握しようとしたとも言われている。そのため、毛沢東は林彪と協力し、文化大革命を起こして権力の掌握を図ろうとした(文化大革命の原因については諸説がある)。林彪は協力の代償として、軍の実力者として目障りだった羅瑞卿の罷免を毛沢東に要求した。羅瑞卿は彭徳懐失脚後も軍近代化の必要性を主張しており、保守派の林彪と対立していたということもあった。1965年12月8日、林彪の妻葉群は羅瑞卿を告発し、それが認められて羅瑞卿は自宅軟禁された。1966年3月18日、羅瑞卿は自宅で飛び降り自殺を試みるが失敗し、それを党に対する裏切りとされて告発された。5月の政治局常務委員会拡大会議で彭真・陸定一・楊尚昆と共に反党集団とされ、秦城監獄に投獄された。毛沢東の警備責任者としての後任は汪東興になった。張春橋は1967年、羅瑞卿を批判し、1955年の反革命粛清運動で大きな成果が得られなかったのは、羅瑞卿らが運動の指揮を執っていたからだ、と批判している。1976年に毛沢東が死去し、文化大革命が事実上終結すると名誉回復され、1977年の中共第十一届中央委員、中央軍委秘書長に選出された。1978年7月には治療のためにドイツに行き、1978年8月3日死去。
出典:wikipedia
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