1920年アメリカ合衆国大統領選挙(1920ねんアメリカがっしゅうこくだいとうりょうせんきょ、英:United States presidential election, 1920)は、第一次世界大戦の後始末と民主党現職大統領のウッドロウ・ウィルソンに対する敵対的反応が中心となった。戦時の好景気は崩壊していた。政治家達は休戦条約と国際連盟にアメリカが加入すべきかについて議論していた。海外では戦争や革命が起こっていた。国内では1919年に食肉加工業や鉄鋼業で大きなストライキが起こり、シカゴなどの都市で大規模な人種暴動が起こっていた。テロリストによるウォール街の攻撃で過激派やテロに対する恐怖が生まれた。現職大統領のウィルソンは次第に不人気となり、病身でもあったのでもはや彼のために弁護することはできなかった。経済は不況に入り、大衆は戦争と改革に疲れ、アイルランド系カトリック教徒とドイツ人の社会はウィルソンの政策に憤慨し、ウィルソンが国際連盟成立を推進したことも孤立主義の反応を生んだ。元大統領のセオドア・ルーズベルトは共和党の有力な大統領候補だったが、1918年に健康が悪化し、1919年1月に死んだ。その改革路線の明白な後継者はいなかった。二大政党は共に選挙人の数が多いオハイオ州からダークホースの候補者を選んだ。民主党は新聞発行者で知事のジェイムズ・コックスを、共和党の上院議員ウォレン・ハーディングの対抗馬として指名した。ハーディングはいつもに戻ろう("A return to normalcy")をスローガンに、実質的にウィルソンに対する攻撃で選挙戦を行い、4対1に近い地滑り的大差でコックスを破った。これは一般投票の得票率でも60.3%対34.1%と26.2ポイント差となり、1820年以降現在までの記録となる大差になっている。共和党の指名候補者1920年の共和党全国大会は6月8日からシカゴで開催された。指名競争は予測のつかないものであり、まもなくレナード・ウッド将軍とイリノイ州知事フランク・O・ローデンの間で行き詰まりとなった。他にも候補に挙がっていたのはオハイオ州のウォレン・ハーディング、カリフォルニア州のハイラム・ジョンソン、ワシントン州のマイルス・ポインデクスター、およびマサチューセッツ州知事のカルビン・クーリッジ、カリフォルニア州のハーバート・フーヴァー、コロンビア大学学長のニコラス・バトラー等であった。ウィスコンシン州のロバート・M・ラフォレット・シニアは正式な候補者リストに入っていなかったが、それでも同州の代議員が投票した。10回目の投票の調整後で、ハーディングが大統領候補に指名された。10回の投票の内訳は下表の通りである。ハーディングの指名は、ハーディングの政治秘書ハリー・M・ドーアティによって細工された「紫煙に満ちた部屋」での党ボス達との交渉で確保されたと言われた。ドーアティはハーディング当選した後に司法長官になった。ドーアティは集会の前に、「私はハーディング上院議員が1回目、2回目あるいは3回目の投票で選ばれるとは思わないが、集会の金曜日の朝2時11分ころに15人から20人の疲れきった男達がテーブルの周りに座っているとして、誰かが『誰を指名するだろう?』と言うだろう。その決定的な瞬間にハーディングの友人がハーディングを示唆すれば、結果がうまくついて来るものだ」と言ったと言われている。ドーアティの予言は実際に起こったことを言い当てているが、歴史家のリチャード・C・ベインとジュディス・H・パリスは、ドーアティの予言が集会での体験談に多くを基づいていると指摘した。大統領候補の指名が決着すると、党のボス達とハーディング上院議員は、代議員達に向かってウィスコンシン州の上院議員アービン・レンルートを副大統領候補に推薦したが、代議員達が反抗し、その年前半にボストン警官ストライキを処理して人気の高かったクーリッジを指名した。副大統領候補の指名投票結果は下表の通りである。民主党の指名候補者ウィリアム・マカドゥー(ウィルソンの義理の息子で元財務長官)が最も有力な指名候補だったが、ウィルソンは、行き詰まった集会がウィルソンに3期目を要求することになると期待して、マカドゥーの指名を阻止した(ウィルソンは身体的に動けない状態であり隔離されていた)。サンフランシスコで開催された民主党全国大会では、オハイオ州の新聞発行者で知事のジェイムズ・コックスを大統領候補に指名し、38歳の海軍次官補であり、大統領セオドア・ルーズベルトとは5代離れた従弟であるフランクリン・ルーズベルトを副大統領候補に指名した。集会初期の有力候補はマカドゥーと司法長官アレクサンダー・M・パーマーだった。他にもニューヨーク州知事のアル・スミスやニュージャージー州知事のエドワード・I・エドワーズ、元訴訟長官のジョン・W・デイビスの名前が浮かんだ。ウォレン・ハーディングの主たる選挙スローガンはいつもに戻ろう("A return to normalcy")であり、進歩主義時代の社会的混乱の後で疲れきっていたアメリカ大衆に訴えるものがあった。さらに第一次世界大戦とヴェルサイユ条約は全く不人気であり、特にヴェルサイユ条約の調印を熱心に推進したウィルソンに対する反抗を生じさせた。アイルランド系アメリカ人は民主党内に力を持っており、その敵であるイギリスと共に戦争に突入することに反対し、特に1916年のイースター蜂起の激しい抑圧のあとはひどかった。1917年、ウィルソンはイギリスにアイルランドの独立を認めるよう要求すると約束してこの問題を処理した。しかし、ヴェルサイユでは約束を破棄し、アイルランド系アメリカ人社会は猛烈にウィルソンを非難した。ウィルソンは逆に、国際連盟を大衆が支持しないことについてアイルランド系アメリカ人とドイツ系アメリカ人を非難し、「国際連盟に反対する組織的な宣伝活動があり、およびその組織的な宣伝活動と全く同じ情報源から交渉中の条約に対する反対がある。そこからこの国のここかしこに国に対する不忠の怖れを与えている。私は言いたい、私は度々言うことができないから、身の回りにハイフンを持つ者(外国系アメリカ人)は誰でも用意があるときはいつもこの共和国の生命に突き刺すことのできる短剣を持っているということを。」と言った。これに反応したアイルランド系アメリカ人の都市組織は選挙の間もやる気が出ず、共和党があらゆる主要大都市で前例のない地滑り的勝利を掴むことを許した。多くのドイツ系アメリカ人の民主党員は共和党に投票するか棄権し、中西部の田舎でも共和党に大勝利を得させた。ウィルソンは国際連盟について「厳粛な国民投票」を期待していたが、それはならなかった。ハーディングは国際連盟については口を噤み、それによって協調するウィリアム・E・ボラー上院議員と同様に「相容れないもの」という姿勢を保った。コックスもこの問題は回避した。コックスはウィルソンの支援を求めてホワイトハウスに行き、明らかに国際連盟を支持したが、民主党員の中でもその不人気さを見出して、特に国際連盟の規定第10条、すなわちアメリカ合衆国が連盟の宣言する如何なる戦争にも参戦を求められるという条項に保留をつけて、連盟成立を望むと言った(すなわちコックスは共和党の上院指導者ヘンリー・カボット・ロッジと同じ立場を採った)。記者のブランド・ホィットロックが指摘するように、連盟は政府周辺の重要な問題だが、選挙民にとっては瑣末なことだった。さらに選挙運動はこの問題に関わっていないとし、「民衆は実際にハーディングやコックスがどのような考えを持っているかしらないし、ハーディングとコックスも同様である。偉大なのは民主主義だ」と述べた。ハーディングには「黒人の血が混じっている」という醜い(誤った)噂が流布したが、これはハーディングの選挙運動を大きく傷つけることはなかった。コックスは集会、鉄道駅での演説会および正式な講演会など目まぐるしい選挙運動を展開し、おそらく200万人の聴衆の前に現れた。ハーディングは1896年のウィリアム・マッキンリーの例に倣い、「玄関前演説会」に頼った。オハイオ州マリオンの自宅には数千の有権者が訪れ、その前で演説を行った。共和党の選挙対策委員長ウィル・ヘイズはコックスが遣った金の4倍近くにあたる810万ドルを費やした。ヘイズは主要な方法として全国的な広告を使った(広告業者アルバート・ラスカーの助言に従った)。その主題はハーディング自身のスローガン「アメリカを第一に」(America First)だった。「クーリエズ・マガジン」1920年10月30日号の共和党広告は「揺れて揺らいで対処しよう」と要求した。この広告に表されたイメージは「アメリカ合衆国によるアメリカ合衆国の絶対的支配」、「独立は1776年と同様な独立を意味する」、「この国はアメリカ人のためにある。次の大統領は我々の祖国のためにある」および「我々は随分前に我々を支配する外国の政府に反抗すると決めた」というようなキャッチコピーを使い、民族主義的なものであった。1920年11月2日投票日の夜、商業ラジオ放送は初めて選挙開票速報を流した。ピッツバーグのKDKA (AM)のアナウンサーは電報で入る速報を入手するごとに読み上げた。単一の放送局でもラジオ受信機を持っている少数の人々によって合衆国東部の大半で聞き取ることができた。ハーディングの地滑り的勝利は深南部を除くあらゆる地域で現れた。1916年にウィルソンとその平和を支持したアイルランド系アメリカ人とドイツ系アメリカ人有権者はこのときウィルソンとヴェルサイユに反対する投票をおこなった。ドイツ語新聞は「ハーディングに投票することは、戦時中にドイツ系アメリカ人が味わった迫害に対抗して投票することだ」と伝えた。主要ドイツ語新聞の中でコックスを支持したものは無かった。ヴェルサイユでアイルランドを助けることを拒んだウィルソンに激しく怒ったアイルランド系アメリカ人は棄権した。彼等がほとんどの大都市における民主党を支配していたので、このことが共和党に少数民族票を動員させ、ハーディングが大都市を席捲した。この選挙は、1920年8月に成立したアメリカ合衆国憲法修正第19条に従って、全州で女性が投票を認められた最初の選挙だった(しかし、一般選挙のときだけだった)。テネシー州がハーディングを選んだことは、レコンストラクションの終結以来、アメリカ連合国加盟の11州の中で共和党候補を選んだ初めての機会となった。コックスが大敗したという事実にも拘らず、その副大統領候補だったフランクリン・ルーズベルトは、その活動的で精力的な選挙運動のために政治的な知名度が上がった。1928年、ルーズベルトはニューヨーク州知事となり、1932年には大統領に選ばれて、1945年のその死まで権力の座に留まり、最も長期間大統領を務めた者となった。アメリカ社会党の候補者ユージン・V・デブスは、戦時の徴兵拒否を提唱した廉で当時刑務所に入っていた事実にも拘らず、一般選挙で913,664票(3.4%)を獲得した。デブスは後にハーディング大統領から恩赦を受けた。これはアメリカ社会党の候補者が受けた最大得票だったが、得票率は最大ではなかった(修正第19条によって著しく有権者の数が増えた)。農業労働者党のパーリー・P・クリステンセンは265,411票(1.0%)を獲得し、一方禁酒党候補者アーロン・S・ワトキンスは5位で189,339票(0.7%)となり、1884年以来の悪い結果になった。禁酒法を始める修正第18条が前年に成立したばかりであり、単一問題政党は時代遅れになりつつあった。
出典:wikipedia
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