張 自忠(ちょう じちゅう)は中華民国の軍人。最初は北京政府、国民軍、後に国民政府(国民革命軍)に属した。最終階級は陸軍上将。日中戦争の際には、中国軍の勇将として日本軍からも名声が高かった人物である。字は藎忱。父の張樹桂は、清末に江蘇省贛楡県の知県をつとめていた。1905年(光緒31年)、張自忠は臨清県立高等小学堂に入学する。1911年(宣統3年)に天津法政学校で学んでいたときに、中国同盟会に加入した。1912年(民国元年)、済南政法学堂に転入した。1914年(民国3年)夏、奉天省に向かい第20鎮第39協第87標に加入した。1917年(民国6年)、馮玉祥率いる第16混成旅に所属し、国内各地を転戦する。1919年(民国8年)、湖南省常徳で鹿鍾麟の率いる教導団(大隊)で学習し、馮から模範学員との評価を受ける。修了後に連長となった。その後も順調に昇進し、1925年(民国14年)には国民軍第1軍第5師第15旅旅長となった。1926年(民国15年)4月からの南口での北方各派との戦いでは、西路軍(総司令:宋哲元)第6軍軍長石友三の配下として戦った。しかし馬邑の失陥について宋・石から懲戒され、張はやむなく山西省の閻錫山に一時降っている。同年9月に馮玉祥は帰国して五原誓師を行った際に、自ら閻と交渉して張を呼び戻し、国民聯軍総司令部副官長に任命した。まもなく、張は第28師師長に異動している。1927年(民国16年)、馮玉祥の軍が国民革命軍第2集団軍に改組されると、張自忠は第25師師長兼第2集団軍軍官学校校長に任命された。張は、第2集団軍の中下級軍官の訓練・教育に従事し、軍隊の質の向上に貢献した。北伐終了後の1929年(民国18年)春、馮玉祥と蒋介石との対立が激化すると、戦争準備のため、張は潼関警備司令に任命された。まもなく第11軍副軍長兼第26師師長に異動し、洛陽以東で蒋側の唐生智軍と激しく戦う。1930年(民国19年)の中原大戦でも第6師を率い、各地で蒋軍との戦いを繰り広げた。反蒋連合が敗北すると、張は宋哲元率いる第29軍第38師師長に編入されている。1931年(民国20年)3月の長城抗戦では、張自忠も宋哲元指揮下で力戦する。最終的に敗北したものの、国内からは賞賛を受ける戦いぶりだった。その後、第29軍の退却に伴い、張は第38師を率いて宣化に駐屯している。1935年(民国24年)、張はチャハル(察哈爾)で日本軍部隊を撃破した。同年12月、冀察政務委員会委員兼察哈爾省政府主席に任命された。1936年(民国25年)5月、天津市長に異動した。張は行政改革にも手腕を発揮し、日本からも注目を受ける政治家となった。1937年(民国26年)3月、張は13名の高級幹部と支那駐屯軍の日中親善として日本へ訪問したが、経済契約に関する交渉は決裂した。同年7月の盧溝橋事件後、冀察政務委員会委員長の宋哲元は抗戦の決断ができず、張自忠は宋の意を受けて日本側と和平交渉を行った。しかし、もはや和平のなる状況ではなかった。張は日本軍からの勧誘も拒否して、天津租界等を経由して南京に撤退した。このため、蒋介石から懲戒処分を受け、張は軍事委員会軍政部中将部附に異動させられている。12月、張自忠は第59軍軍長として自己の部隊に復帰し、李宗仁が司令長官を務める第5戦区に配属された。1938年(民国27年)から日本軍との戦いを開始する。3月、張率いる第59軍は、龐炳勲の軍を救援して、臨沂郊外で板垣征四郎率いる第5師団と約半月戦い、これに大きな損害を与えた(台児荘の戦い)。この軍功により、張は第27軍団軍団長兼第59軍軍長に昇進した。同年6月の武漢会戦にも張は参戦して軍功をあげ、第33集団軍総司令(3個軍統括)に昇進した。階級は陸軍上将。さらに湖北省北部や河南省南部に駐屯し、李から第5戦区右翼兵団司令に任命された。1939年(民国28年)5月と12月には、進軍してきた日本軍を撃退している。1940年(民国29年)5月8日、湖北省随県で、張自忠率いる第33集団軍は日本軍と激戦を展開した(棗宜会戦)。16日、張は最前線で銃弾5発を受けながらも懸命に督戦していたが、午後2時頃に力尽きた。享年50(満48歳)。最期については、銃により自決したとも、日本軍兵士に斬り倒されたとも言われる。日本軍は張への敬意と礼節を示し、その遺体を丁重に埋葬した。その後、国民政府軍により接収された張の遺体は重慶へ送られ、国葬の待遇を受けた。張の死は、中国の各政治勢力、社会各層に大きな悲しみを与えたが、一方で抗戦意欲の昂揚にもつながった。現在でも、北京市東城区の張自忠路にその名を残している。
出典:wikipedia
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