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能勢氏

能勢氏(のせし)は、摂津国(北摂地方)の封建領主。清和源氏頼光流を称する。「能瀬」・「野瀬」・「能世」など複数の表記が存在する。家紋は切竹矢筈十字、獅子牡丹など。能勢氏は摂津源氏の流れを汲む一族で、源頼光の玄孫国基を祖とする。また、多田源氏の惣領源頼盛の三男高頼の後裔ともされる(『尊卑分脈』によると、国基の後裔は田尻、高頼の後裔は倉垣を本拠としていたと推察される)。能勢地方は源満仲以来の本拠地である多田に隣接することから古来より源氏と関係の深い土地であったと考えられ、能勢氏や地元の伝承などによると、源頼光の長子頼国が最初に入部して開発したとされるが、現在のところ、頼国と能勢を関連付ける確かな史料は確認されておらず、能勢氏の直接の祖とされる国基は平安時代後期から末期にかけての人物である。なお太田亮は、摂津源氏は仮冒であって出自を古代能勢郡領家の後裔としている。高頼の子孫とする系図は裏付けがなく、国基の系統も所伝や系譜が諸説あって明確ではない。鎌倉時代に入ると国基の後裔は鎌倉幕府の御家人となり、『吾妻鏡』建久6年(1195年)3月10日条にある将軍家東大寺供養に随行する兵に「野瀬判官代」とその同族「安房判官代」の名がみえる。承久の乱では、摂津国守護・大内惟信や同族の多田基綱のほか畿内の武士の多くが京方に属して敗れているが、能勢氏は幕府方に属したとされる。南北朝時代には北朝方に与したとされるが、南朝方であった多田頼貞の系譜を引くとも伝え明確でない。建武の新政で頼貞は摂津国能勢郷の目代をつとめた。足利尊氏離反後には南朝方に与して各地で転戦するが、備前国で自害し、その子頼仲は尊氏に与したとされる。室町時代には幕府の奉公衆として摂津の有力国人に成長するとともに、摂津国守護細川氏(京兆家)の被官となっている。応仁の乱では細川勝元に属して東軍として戦い、能勢頼弘とその子頼満が討死している。戦国時代、能勢の丸山城を本拠として芥川山城や山城国の今里城などをも居城とするなど、その勢力を拡げる。天正10年(1582年)の本能寺の変では能勢頼次が明智光秀方に加勢するが、光秀滅亡後は能勢を追われ、先祖多田頼貞に所縁ある備前国内に潜伏したという。その後、能勢は島津氏の在京賄料となった。豊臣秀吉の没後、頼次は弟である東寺の僧金剛院を介して徳川家康に召し出され、慶長4年(1599年)に家名を再興する。関ヶ原の戦いでは家康に属して戦功を立て、能勢郡地黄3000石余を与えられて旧領を回復を果たした。のちに加増された結果、石高は5300石余を数えた。一方『多田雪霜談』においては、天正12年(1584年)の枳根之宮合戦において塩川氏に攻め込まれ敗色濃厚となった能勢氏を立て直すため、頼次が秀吉に面会後、同年12月13日地黄城に帰城したとされ、頼次の動向には相矛盾する不明な点が多い。江戸時代、能勢氏は数家に分かれ、それぞれ旗本として存続した。能勢本家は地黄陣屋を拠点として、4000石の交代寄合として幕末に至った。また、幕末期には庶家を含め一族は14家を数え、総知行高は1万3千石を数えたとされる。現在、能勢氏の菩提寺である清普寺の境内に一族の墓所がある。能勢地方は、東部はキリシタン大名の高山右近の影響もあってキリスト教徒が多かったが、中部と西部は真言宗の寺院が多かった。家康のキリスト教禁止と近い時期に、頼次は能勢一帯の神社仏閣を日蓮宗に改宗させているため、頼次がキリシタンを弾圧したと勘違いされることも多いが頼次の領地は真言宗の寺院が中心であったためこれは正しくはない。頼次は能勢妙見山を篤く信奉していたことから、領民に対する改宗の強要も強引なものだったらしく『能勢のいやいや法華』の言葉が伝わる。東部では隠れキリシタンも多く居たらしく長崎地方をしのぐ数の隠れキリシタンの遺物が発見されているが、中部と西部においてはそのような遺物はみられない。凡例 実線は実子、点線は養子

出典:wikipedia

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