乳井 貢(にゅうい みつぎ)は、18世紀に活躍した弘前藩藩士。勘定奉行として活躍する前は乳井建富(のりとみ)を名乗っていた。「貢」の名は津軽信寧から功を称えられ、賜った。1753年(宝暦3年)、藩主津軽信寧の代に勘定奉行に取り立てられると、いわゆる宝暦改革に着手。藩士からの借米の一部を棒引きするとともに、豪商への課税を強化するなど藩財政を立て直しを行った。このことが功を奏し、1755年(宝暦5年)に発生した宝暦の飢饉の際には、餓死者の発生を抑えることに成功。藩主信寧より「貢」の名をもらい受ける。この飢饉では、餓死者こそ出さなかったものの、豪商からの借金は膨らみ藩経済は疲弊。乳井は、更なる強権策として行政組織の整理、有力商家への課税強化と優遇、藩札(標符)の発行、徳政令的な施策などを矢継ぎ早に実施したが、藩経済を混乱させるにとどまり、失脚する要因となった。乳井は、津軽信寧に蟄居を命ぜられ、10年ほど川原平村(現・西目屋村川原平)に流される。乳井が去った後も弘前藩の経営はままならず、1778年(安永7年)、藩主津軽信明により再び勘定奉行への登用が図られるも、過去の強権政治の記憶が残る藩士や商人はこぞって難色を示し、乳井は賛同する勢力が得られないまま再失脚している。1756年(宝暦6年)、外ヶ浜巡視をきっかけに津軽半島の海岸線に居住していたアイヌ民族を平民扱いとする同化政策を採った。同化政策は、海岸線で漁労や交易を営んでいたアイヌ民族の生活や地位を向上させたが、民族固有の文化や生活様式は急速に失われた。抵抗した住民の一部は逃亡したが、最終的には弘前藩に恭順している。農業に従事した経験から1772年(安永元年)に農業経済学的な内容である書物、『陸稲記』を著している。1781年(天明元年)に著した『初学算法』では、現在のそろばんと同じ珠の配置(地4+天1)を唱えた。1780年代に失脚した際には辺境の川原平に蟄居を命ぜられたが、拘束の程度は緩く、新田を開発する傍ら寺子屋を開き、村人に読み書きを教えていた。こうした活動から、乳井は地域の住民から慕わる存在となり、昭和10年に建立された顕彰碑が西目屋村川原平に現在も残っている。天明4(1784)年、許されて弘前に閑居し、詩文俳諧を楽しみつつ、数学などを講じて余生を終えた。当時の武士の規範とされた朱子学の考え方を批判し、社会に有用な実学を重んじた。『志学幼弁』、『大学文盲解礼通用』、『応分志』、『経国度量』、『度量分数』、『国家財政』、『議量問答』、『商家利道』、『太極図説』、『象数』、『易象』、『夫貢制定分録』、『王制利権方睦』、『稲記損』、『益指掌町見術』、『五虫論』、『津軽名臣伝』、『深山惣次』、『蝸牛の道徳』、『可楽先生詠歌』、『無名郷』、『節用則』など多数
出典:wikipedia
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