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メジロワース

メジロワースは日本の競走馬。1990年代前半に中央競馬で平地競走のマイラーズカップおよび障害競走の中京障害ステークス3連覇で重賞4勝を挙げた。1987年11月の芝1600mの新馬戦で2着に5馬身差の勝利を収め、2戦目となった阪神3歳ステークスではサッカーボーイに次ぐ2番人気となったが、スタートで2馬身ほど出遅れとなり、3、4コーナー中間からまくり気味に上がっていったが直線で力尽きて7着に敗れた。その後長期休養に入り、1989年1月に復帰するとそこから9戦連続連対し、2勝を挙げる。これは10戦目の東山特別で7着となって途切れたが、その後も900万以下の競走を2勝、準オープンの阪神競馬場開設40周年記念で2着とし、続く1990年のマイラーズカップでは単勝16.4倍の7番人気ながら、中団から直線で突き抜けて2着のスカイジャイアントに半馬身の差で優勝した。しかし続く4戦は最高7着と精彩を欠き、6月の阪急杯で12着となった3週間後に障害競走で初出走を行った。障害競走ではその平地力を生かしてデビューから連勝でオープン入りし、3戦目となった中京障害ステークス(秋)でも1番人気となった。レースでは向こう正面の最初の障害で急減速を行い後方に置かれるが、1周目の逆周りの2コーナー過ぎでかかり気味に先頭を奪う。しかし、次の障害で再び急減速を行ってクリバロンに先頭を譲った。その後は無難な飛越で最終第3コーナーから再び先頭に立ち、ゴール手前で一気に伸びてきたピアドールを1馬身3/4抑えて優勝した。続く東京障害特別(秋)では単勝1.5倍の圧倒的な人気となるが、全体的に飛越が悪く、後方から動けないまま7頭立ての4着に敗れた。翌1991年の東京障害特別(春)でも水濠障害で大きくバランスを崩して最後方に下がり、道中後方のまま直線で追い上げたが5着までだった。これから先、二度と東上することなく、京都、阪神、中京の3競馬場のみで競走を行った。1か月後の中京障害ステークス(春)では後方から徐々に進出、最終第3コーナーで先頭に立って2着のスガハラテンジンに7馬身差の圧勝。しかし、続く京都競馬場の障害オープンでそのスガハラテンジンの2着に敗れ、京都大障害(春)でも2周目向こう正面から先に抜け出したナムラモノノフを捕らえられず2着となった。その後京都、中京の障害オープンをそれぞれ2着、1着となり、3連覇のかかった中京障害ステークス(秋)に向かった。メジロワースは前半は中段に位置したが、襷の坂路を越えて最初の障害で躓き、騎手の酒井浩が鞍から落ちそうになったが、メジロワースの横腹にしがみついてこれに耐えた。後方2番手まで下がったが再び進出、直線に向いて、メジログッテンが壁になったが、最終障害を越えて外から追い抜くと、大外から追い込んだウインドブレーカーの追撃を1馬身半差振り切って3連覇を達成した。続く京都大障害(秋)は最初の生垣、水濠障害の飛越が悪く後方からとなり、中盤から追い上げるも3着に敗れ、7戦ぶりに連対を外した。続く阪神競馬場での障害オープンに勝利し、初めて中京競馬場以外で勝利した。1992年は1戦のみで6月の中京の障害オープンで2着となり、初めて中京競馬場の障害競走で敗れた。秋の阪神障害ステークスは64kgのハンデを嫌って回避した。1993年4月の障害オープンで復帰。障害競走で唯一の3番人気となったが、2着のビッグフォルテに2馬身半の差をつけて勝利してそのまま京都大障害(春)に向かったが、飛越が悪く後方に置かれ、直線で足を伸ばして2着となるも優勝したビッグフォルテには1.9秒の大差をつけられた。その後は重賞に出走することはなく、同年10月までに阪神、京都の障害オープンを3連勝の後2着、そして1年後の1994年10月の障害オープンで6着に敗れ、これを最後に引退した。水濠障害の飛越が苦手で、水面を嫌がるように上方に飛びその度に後退していた。水濠のない中京競馬場との相性は良く、重賞も含め7戦6勝の成績だった。引退後は立教大学の馬術部の競技馬として2008年7月まで生活し、障害飛越競技に出場していた。

出典:wikipedia

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