ディー橋事故(ディーきょうじこ、)は、1847年5月24日に発生した、5名の死者を伴うイギリスの鉄道事故である。1840年代にイギリスの鉄道網の拡張を企図した計画であるチェスター・アンド・ホーリーヘッド鉄道()に、チェスターのディー川()を横断する橋が必要とされた。それは、それぞれが組み合わされた三つの巨大な鋳物よりなる鋳鉄の桁により建設された。各桁は、錬鉄の棒により全長にわたり補強されていた。1846年9月に完成し、主席鉄道検査官のチャールス・パスレイ将軍の認可の後に地域交通に供用された。しかし、1847年5月、橋を通行していた普通列車が落下した。この事故で5名の死者と多数の怪我人が出た。橋は、ロバート・スチーブンソンの設計で、彼は地域検査官に無知を咎められた。鋳鉄は圧縮には強いものの、捻れ、引っ張りには脆いことが知られていた。事故の日に橋は線路を支える樫の梁に火がつくことを防止する敷石で覆われていた。皮肉にもこの予防はロンドン、ウクスブリッジのグレート・ウェスタン鉄道で、イザムバード・キングダム・ブルネルが設計した橋が出火して崩落した事故を受けてのことであった。結成されたばかりの、鉄道検査会()の初期の大仕事のひとつは、ディー橋災害であった。検査官の長は、王立技官()のシモンズ大将()で、彼の報告では繰り返す曲げにより桁が実質的に弱体化していたと推測していた。彼は、主桁の壊れた部分を検査し、それが二カ所壊れ、一つ目は真ん中にあったことを確かめた。壊れずに残っていた桁の上で機関車を走らせてみて、移動負荷のもとで数インチ変位することを見つけた。設計が根本的に誤っており、錬鉄のトラスは全く桁を補強していないと結論し、陪審でも同様となった。スチーブンソンの設計は、錬鉄のトラスが全体の構造を補強することに依存していたが、鋳鉄桁に取り付けられていたので、負荷時にともに変形した。事故は、線路に敷石が敷かれた数時間後、機関車が最後の桁に達した際に起きた。桁は真ん中で割れて、すべての車両が50 フィート下のディー川に墜落した。敷石の分の余分な荷重は間違いなく事故が起きる一因となった。いろいろな人が、いろいろなことを言ったが、橋の設計は重篤に誤っていた。ルイスとギャグは、応力集中により増幅された桁下部の張力により壊れたと主張した。ヘンリー・ペトロスキ(Henry Petroski)は、錬鉄棒は梁の圧縮を悪化させ、中心からずれているために側方捻じれ座屈による破壊をきたしやすくすると述べた。この意見は、脆性破壊を説明しない。桁の繰り返す変位により下縁のつばの角から疲労により破壊したと考えるのが妥当である。ウィリアム・フェアベアン()はスチーブンソンに、橋が建設される数ヶ月前のロンドンの土木技師会()の集いで鋳鉄桁の問題を警告したが、この忠告は無視された。その後の王立委員会(1849年報告)は鉄道橋に鋳鉄トラスを用いることと設計を非難したが、その後、ウートン橋崩壊()、ブル橋事故()など鋳鉄鉄道橋の事故は続いた。これ以外にも、ステープルハースト鉄道事故、インベリサン事故()、ノーウッド・ジャンクション事故()がある。鋳鉄は、1851年の水晶宮と1857年の南ウェールズのクルムリン水路橋に成功している。しかし、1878年の初代テイ橋が壊滅的に破壊したのは、鋳鉄を張力梁に用いるという、材料の酷い利用による。テイ橋事故は、1890年完成のフォース鉄道橋のように鋼鉄を用いるように技術者に促した。
出典:wikipedia
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