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徳州 (山東省)

徳州(とくしゅう)は中国にかつて存在した州。現在の中華人民共和国山東省徳州市平原県一帯に比定される。春秋時代には斉の支配下にあって「平原邑」と呼称したが、戦国時代に趙に支配権が移り、恵文王の実弟・趙勝が封じられて「平原君」と呼ばれた。後に秦がこの地に平原県を設置した。前漢では兗州、後漢では青州の下に平原郡を設置している。その後後漢末に曹操が自己の勢力拡大のために平原を冀州に編入し直している。その間には斉王田栄が項羽に敗れてこの地で住民に殺され、黄巾の乱後には劉備が公孫瓚の推挙で平原国の相に就任している。晋代になると冀州の下に平原国が設置された。北魏の時代になると平原郡は聊城県に移され廃止とされが、後に安徳郡が設置されている。隋朝が成立すると当初は冀州と滄州の管轄地域とされていたが589年(開皇9年)に安徳郡は徳州と改称、更に605年(大業元年)、観州(589年設置)が廃止された際にその管轄区域が徳州に移管された。607年(大業3年)、郡制施行に伴い徳州は平原郡と改称、下部に9県を管轄した。隋朝の行政区分に関しては下図を参照。唐朝が成立すると徳州と改称された。742年(天宝元年)に平原郡とされたが758年(乾元元年)に再び徳州と改称され、平原郡の行政区画名は消滅した。安史の乱の時に顔真卿が守護した平原城は徳県にあったものである。一方、平原県は北斉の再置以来の同一名称・場所に継続して置かれている。元朝が成立すると金朝の行政制度を継承し東平路の下に徳州を設置した。1265年(至元2年)前後、元朝は大名府の清平県、済南府の斉河県を編入、同時に旧来の管轄県であった安徳県、平原県、徳平県を東平路より分割し、直隷省部の州とした。後に編入された清平県及び斉河県であるが、清平県は徳州治所より南に150里、斉河県は南西に180里に位置し、高唐州の中に位置する飛び地となっていた。1912年(民国元年)、州制廃止にともない徳県と改称され、「徳州」の行政区画名は消滅した。地級市の徳州市が成立した際に「徳州」の名称が復活した。

出典:wikipedia

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