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黒井城の戦い

黒井城の戦い(くろいじょうのたたかい)は、安土桃山時代に織田信長の命をうけた明智光秀などが丹波国征討を目的に行われた、赤井氏の堅城黒井城への攻城戦。天正3年(1575年)と天正7年(1579年)の2度に渡って行われた。永禄13年(1570年)3月、上洛していた織田信長に荻野直正と甥の赤井忠家(直正の兄赤井家清は亡くなり、忠家は家清の嫡男)は拝謁し織田方につくことを約束した。信長はこれに対して氷上郡・天田郡・何鹿郡の丹波奥三郡を安堵した。これで丹波は安定するかに思えたが翌元亀2年(1571年)11月、但馬守護で有子山城主山名祐豊と但馬国人の夜久野城主磯部豊直らが氷上郡にあった足立氏の山垣城を攻城した。黒井城の直正と後屋城の忠家はこの動きに即応し、山垣城に救援に向かい山名・磯部両軍を撃退した。4年後の天正3年(1575年)に直正は勢いに乗り但馬の竹田城を攻城し手中に収め、祐豊は信長に援軍を要請するも、当時信長は信長包囲網にあい、援軍を出せる余裕はなかった。同年、越前一向一揆が一段落すると信長は明智光秀を総大将に丹波征討戦に乗り出すことになる。信長としてみれば、吉川元春を討つ前に京都に近い丹波を平定し、背後の憂いを削ぐのが目的だったと推察されている。光秀は越前より坂本城に帰城し、戦の準備を整えて同年10月初旬に出陣したと考えられている。この時直正は竹田城にいたが、光秀の動きを察知し黒井城に帰城、戦闘態勢を整えた。これと並行して信長は10月1日、丹波国人衆に向けた朱印状を出し、その調略によって八上城の波多野秀治をはじめ、国人衆の大半を取り込んでいた。光秀は黒井城の周囲に2、3箇所の砦を築き、圧倒的兵力で黒井城を包囲した。この頃の戦況は光秀に有利であり、『八木豊信書状』によるとこの戦況について光秀は「城の兵糧は来春までは続かないで落城するであろう」と楽観しており、戦いは順調に推移していた。しかし攻城戦開始後2か月以上が経過した翌天正4年(1576年)1月15日、波多野秀治軍が3方向から攻め立て明智軍は総退却となった。『ひょうごの城紀行』によると「赤井の呼び込み軍法」と言われている。この戦いは秀治の裏切りにより勝敗がついたが、呼び込みという言い方は適切ではない。なぜこのような言い方が伝わったか『郷土の城ものがたり』では、信長の朱印状の返事をどのようするか、丹波国人衆が集まり協議を行い「直正のみが信長の意向に従わない、他の国人衆は信長に従うので直正を討ち滅ぼしてほしい」という偽りの返事をしたのではないかと解説している。『籾井家日記』によると「直正と秀治の間には密約があり予定の行動であった」という記載があるが、『戦国合戦大辞典』によると「その記述は信用できるものではない」としている。『兵庫県の不思議事典』によると「赤井、波多野両家は姻戚関係にあり、事前に密約があった可能性がささやかれてはいるものの、はっきりした記録はない」と記載している。『甲陽軍鑑』によると直正は「名高キ武士」としてと並び紹介されているほどの武将である。直正には、信長を丹波に呼び込んで討ち取る計略があったのではという指摘もあるが、それらを示唆できる資料も確認されていない。天正4年1月15日、明智軍は黒井城の前方(南側)にあたる「平松」という土地に移動し、と黒井城の四方に陣取り、いよいよ黒井城を攻め立てるべく準備が整ったところに、三尾城城主赤井幸家(直正の弟)が明智軍に襲い掛かり、これに即応して波多野秀香軍と波多野秀尚軍が西、東より挟撃した。明智軍は体制を整えるべく一旦柏原方面に退却しようとしたが、そこには高見城で赤井忠家が待ち伏せており、明智軍は黒井川に追いやられ大敗した。このような戦いの状況から、いつの時点で成立したかは定かではないが、赤井氏と波多野氏の間でなんらかの密約らしきものがあったのでないかと思われている。大敗した光秀は京都に逃げ込み、その後坂本城に帰城した。先の戦いから1か月後、再び戦の準備を整え2月18日に坂本城を出陣し丹波に入国したが、この時はほとんど戦わず短期間で引き揚げてしまった。一方、この戦いで織田軍に土をつけたことで直正は「丹波の赤鬼」という名を広め、全国の武将から一目おかれる存在となっていく。最初の戦いから約1年半後に再び光秀が黒井城の攻撃を開始するが、この間光秀は畿内を転戦し石山本願寺攻め(天王寺の戦い)、紀州征伐、加賀攻め、信貴山城の戦いなど休む暇もなく戦場を往来、丹波に集中出来る状況ではなかった。明智軍は必要に応じて駆り出される「遊撃軍団」だったと思われる。一方、荻野直正は下館中心に信長包囲網の一翼を担っていた。足利義昭や吉川元春の使者安国寺恵瓊、武田勝頼の使者跡部勝資や長坂光堅、石山本願寺の顕如からの密書、密使が再三この地を訪れていたという記録が残っている。特に石山本願寺からは信長の動向、その対抗策、返信の要請など緊密に連絡が行き来されていたと思われている。また、直正と弟の幸家は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。この朱印状は4月13日、信長から矢野弥三郎に宛てた朱印状で、内容は「赤井忠家、赤井直正の罪を「赦免」(ゆるし)し、去年以来より織田方に「一味」した者の身上は異論なく扱い、「当知行」も安堵してするので、明智光秀と相談して益々忠節を尽くすよう」とある。矢野弥三郎はどのような人物か不明であるが丹波国人の1人ではないかと思われている。朱印状には4月13日とのみ書かれており年号については不明であるが、「明智光秀と相談して」という部分から推察して第一次黒井城の戦いから第二次黒井城の戦いの間、天正3年(1575年) - 天正7年(1579年)と思われている。このように信長も第二次黒井城の戦いを前に計略を廻らしていた。吉川元春の援軍が到着する前に、光秀は信貴山城の戦いが終了する天正5年(1577年)10月、第二次丹波征討戦を開始する。まず明智軍は多紀郡にある籾井城、桑田郡にある亀山城を落城、この二城を丹波征討戦の本拠地とした。第一次丹波征討戦と違い光秀は一挙に黒井城を攻めようとせず、慎重に周りの城から攻城していく個別撃破戦略をとった。信長は細川藤孝・忠興父子の援軍を送り、翌天正6年(1578年)3月に八上城と氷上城の包囲を完成させる。この時に赤井方では、主将である荻野直正が3月9日に病没するという一大事件がおきる。『ひょうごの城紀行』によると「首切り疔(化膿してできる腫れ物)」の病ではなかったかと言われている。数十年に亘り実質的な赤井氏の指導者であった直正の死去は丹波に大きな影響を与え、一旦光秀を裏切った丹波国人衆は八上城を攻囲するのを見ると再び光秀に降っていった。赤井家では直正の弟の幸家が後見となり統率することになる。更に信長は同年4月に羽柴秀長軍と明智秀満軍の増援を送り込み、等の八上城、黒井城の支城を次々と落城していった。光秀は攻囲中に、軍勢を八上城に置きながら別所長治や荒木村重の謀反にも対処している(三木合戦・有岡城の戦い)。翌天正7年(1579年)3月に八上城と黒井城の分断を目的に金山城を築城する。各支城を落城し、金山城の効果を出始めてきだしたのか、極度の飢餓状態になった八上城に対して、『信長公記』によると「調略をもって」という記載がある事から、八上城兵に対して働きかけがあったと思われている。捕えられた波多野三兄弟は光秀護送の元、洛中を引き回され安土城に出向き信長の命により磔になる。光秀は7月に再び丹波に入国し、最後の城、黒井城の攻城にとりかかる。赤井忠家軍は、第一次黒井城の戦いの時とは違い、波多野家からの援軍もなく黒井城の支城もほとんどが落城してしまい、兵力も激減していたと思われる。戦いは8月9日早朝開始、光秀は第一次黒井城の戦いの反省をいかし慎重に攻め込み、仮想陣地に火をかけたり、ほら貝を吹いて混乱を装い、攻めると見せかけて退いたり、勢いに乗って追う黒井城兵を誘い込み挟撃したりした。そんな中、明智軍の四王天政孝隊が手薄になった千丈寺砦から攻め落とし、主曲輪に向けて総攻撃を仕掛けた。明智軍の誘導作戦で主曲輪には僅かな手勢しか置いておらず忠家も奮戦したが、最後は自ら火を放ち敗走する。この時の状況を『信長公記』では、と記載されている。この戦いで事実上丹波征討戦は終了した。この書状は黒井城落城15日後の8月24日もので、戦勝祈願した京都の威徳院へ送ったものになる。内容は、勝利することができたので約束どおり200石を奉納すると伝えている。また、文中には赤井忠家の居城であったと思われている高見城がまもなく落城し、一両日中には和田方面に進軍すると報じている。神仏を重んじ生真面目な光秀の性格を伺わせる書状となっている。書状の中段に「高見之事、執詰陣候、」という記載が見受けられる。上記書状のように若干の反対勢力との小競り合いや和睦などを片付けて、光秀、細川藤孝らは10月24日に安土城に凱旋し、信長に拝謁し丹波が平定できたことを報告する。翌天正8年(1580年)に信長は丹波を光秀に、丹後を藤孝に与えることになった。第一次黒井城の戦いで全国的に荻野直正の「丹波の赤鬼」で有名になるが、この赤鬼の赤は赤井直正と関係があると思われているが、『郷土の城ものがたり』はそれだけでなく、この頃より揃い鎧を着けて戦うことが始まっているので、おそらく直正軍も揃いの赤い鎧を着用していたのではないかと推察している。羽柴秀吉の家臣の脇坂安治(龍野城主)が、天正6年1月に病床にあった直正を訪ね開城降伏を進言したが、この説得には応じなかった。しかし、その好意に謝して「貂(てん)の皮」を安治に与え、以後龍野神社の宝物となったといわれる。この逸話は司馬遼太郎の歴史小説『貂の皮』としても描かれている。

出典:wikipedia

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