1936年アメリカ合衆国大統領選挙(1936ねんアメリカがっしゅうこくだいとうりょうせんきょ、英:United States presidential election, 1936)は、世界恐慌が8年目に入った年に行われた。現職大統領で民主党のフランクリン・ルーズベルトは、連邦議会や裁判所を通じて、そのニューディール政策の各条項を推進し続けていた。しかし、ニューディール政策は既に法制化され、社会保障や失業給付のような政策が大半のアメリカ人に高い人気を得たことが明らかになっていた。共和党の対抗馬は、カンザス州知事のアルフレッド・ランドンであり、政治的には中道だった。政治学者の中には接戦を予測した者もいたが、ルーズベルトは選挙人選挙ではわずか8票を渡しただけという、当時の二大政党体制が1850年代に始まって以来最大の勝利を得た。ルーズベルト大統領は同好の士以外には唯一人の対抗馬がいるだけだった。ニューヨーク州出身の反ニューディールを掲げる弁護士ヘンリーS・ブレッキンリッジが4州の予備選でルーズベルトに対抗して出馬した。民主党員の中でニューディールの人気を試そうというブレッキンリッジの試みは失敗し、大差で敗れた。ニュージャージー州では、ルーズベルトが候補者名簿に載っておらず、予備選でブレッキンリッジに敗れたものの、書き込み投票だけで19%を獲得した。ルーズベルトを支持する代議員候補者がニュージャージー州だけでなく他の州でも圧倒的に選出された。他の予備選を見ると、ブレッキンリッジが最も多く得票したのはメリーランド州の15%だった。全体的にはルーズベルトが予備選投票数の93%を獲得したのに対し、ブレッキンリッジは2%に過ぎなかった。民主党全国大会はフィラデルフィアで開催された。代議員達は全会一致で現職大統領ルーズベルトを大統領候補に、やはり現職の副大統領ジョン・N・ガーナーを副大統領候補に指名した。ルーズベルトの要請により、南部に拒否権を与えていた3分の2ルールが撤廃された。多くの候補者が共和党の指名を求めたが、ランドン知事とボーラ上院議員が有力候補と考えられた。ノックス、ウォーレン、グリーンおよびデイがそれぞれの出身州予備選では勝利する一方で、進歩派で「造反者」としても良く知られた70歳のボーラは、ウィスコンシン州、ネブラスカ州、ペンシルベニア州、ウェストバージニア州およびオレゴン州の予備選を制し、またノックスのイリノイ州、グリーンのサウスダコタ州でもかなりの強さを示していた。しかし、党機関は大半が富裕な実業家で中道のランドンを後押しし、マサチューセッツ州とニュージャージー州の予備選で勝利し、党員集会や州の党員集会では優勢だった。ノックスが、ランドンの副大統領候補となって撤退し、デイ、グリーン、およびウォーレンはその代議員を自由裁量としたことで、党大会での投票は次の結果になった。この選挙ではルイジアナ州選出の民主党上院議員で「富の再共有」(Share Our Wealth)を掲げ一世を風靡していたヒューイ・ロングが、第三党の候補者として推す動きが盛んだったが、歴史家でロングの伝記作者であるT・ハリー・ウィリアムズに拠ればロング自身に大統領選出馬の意思は無かったと言われている。(ウィリアムズに拠れば)ロングとしては、ラジオ放送で人気を博したカトリック教会の司祭で反ユダヤ主義的ポピュリストでもあったチャールズ・カフリン神父と手を組み、新党「富の再共有」党の公認候補として誰か他の者を出馬させる胎だったと言う。新党の候補者とルーズベルトで左翼票が食い合うことで共和党の大統領が選出されても「富の再共有」の存在を訴えることは出来、ロング自身は4年間待って1940年の大統領選挙で民主党員として出馬しようとしていた。「富の再共有」党の候補者としては、共和党予備選に名乗りを挙げたボラー上院議員やバートン・K・ホィーラー上院議員(民主党、モンタナ州)、また農業労働者党の有力政治家だったフロイド・B・オルソンミネソタ州知事が考えられていたが、1935年9月にロングが暗殺されるとボラーとホィーラーは第三党からの出馬に興味を失い、オルソン知事は末期の胃癌と診断されて出馬を断念する。カフリン神父は、ロングの下で活動していた白人至上主義者でキリスト教右派の代弁者であるジェラルド・L・K・スミスや老齢年金制度の創設を主張していた医師のフランシス・タウンゼンドと手を組み、結成した新党「連合党」候補者としてウィリアム・レムケ下院議員(共和党、ノースダコタ州)を擁立した。レムケは他の可能性があった候補者に比べてカリスマ性も名声も無く、選挙戦もうまく戦えないでやっと2%を獲得したにとどまり、連合党は翌年解散した。ちなみにワシントン州ではファシスト活動家でを率いていたウィリアム・ダドリー・ペリーが、候補者名簿に載り2,000票足らずの票を得た。投票は1936年11月3日に行われた。この選挙は「世論調査」が行われたことで有名である。これは「リテラリー・ダイジェスト」誌が読者および潜在的読者一千万人に郵送し、200万通を回収した質問表に基づくものだった。最近5回の選挙での勝者を正確に予測した「リテラリー・ダイジェスト」誌は、その10月31日号で、ランドンが選挙人表370票を獲得して勝利すると宣言した。この誤りの原因は不適切なサンプリングによるものと考えられている。「リテラリー・ダイジェスト」誌の読者は共和党支持者が多かった。同じ年、科学的な調査を始めた広告社役員ジョージ・ギャラップが、5,000人の無作為抽出に基づく調査でルーズベルトの当選を予測した。ギャラップの正確な予測は、ジャーナリストや実際の政治家にとって、世論調査を重要な要素にすることになった。ルーズベルトは48州のうち46州を制する地滑りてき勝利を掴み、下院での勢力も上積みされた。一般投票でルーズベルトの60.8%という得票率は、1964年のリンドン・ジョンソンに続くアメリカ史の中でも2番目に高い支持率だった。例外として、1820年の大統領選挙ではジェームズ・モンローがほとんど反対の無い選挙となり、選挙人票の98.5%を得たことは2大政党制の中でも最高となっている。政治学者の中には、世界恐慌に責任があると多くの有権者が認めた共和党は間もなく姿を消すと予測した者もいた。しかし、共和党は1938年の議会選挙で強く復活を果たし、1952年の大統領選挙まで勝てなかったものの、議会内勢力を保ち続けた。選挙人選挙の結果、ランドンはメイン州とバーモント州を制しただけであり、民主党議長のジェイムズ・フェアリーはこのことを受けて、「メイン州が動けば国が動く」という当時伝統的な政治格言を「メイン州が動けばバーモント州が動く」に作り変えた。青字は民主党が勝利したことを示す。
出典:wikipedia
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