李 大浩(イ・デホ、, 1982年6月21日 - )は、大韓民国・釜山広域市出身のプロ野球選手(内野手)。MLB・シアトル・マリナーズ所属。幼少期の頃に父が死去し、母とも別れ祖母に育てられた。家庭は決して裕福ではなかったという。小学生の時から野球をしており、慶南高校時代は投手兼4番としてプレー。2000年、カナダのエドモントンで行われた世界青少年野球大会に韓国代表の投手として選出される。大会では金泰均、秋信守、鄭根宇らと強力なクリーンナップを形成し、チームを優勝に導く。大会通じて打率.500(30打数15安打)、3本塁打を記録。打率はアメリカ代表のジョー・マウアーに次ぐ大会第2位の成績だった。にロッテ・ジャイアンツに入団した。肩を痛めたことにより打者に転向。、当時の監督であった白仁天から体重の減量を命じられ、無謀な訓練中に膝を怪我した。李大浩はこの時期が野球人生で一番辛かったと回想している。、膝の怪我の影響で出場機会が少なかった。はレギュラーに定着。にはKBOオールスターゲーム最優秀選手賞を受賞し、公式戦全126試合に出場した。に首位打者、本塁打王、打点王を獲得し、の李萬洙以降22年ぶりとなる三冠王となった。得点圏打率も.398と最も高く、一塁手としてゴールデングラブ賞を受賞した。しかし、最優秀選手投票ではチーム成績が7位と悪かったことと、本塁打・打点の数が低かったことがあだとなり、投手三冠を獲得した柳賢振が最優秀選手賞(MVP)を受賞。、4月21日の現代ユニコーンズ戦では社稷野球場初となる推定飛距離150メートルの場外本塁打を記録。最終的に打率.335、29本塁打、87打点、OPS1.053を記録した。は北京オリンピック野球韓国代表として指名打者で出場。対アメリカ合衆国戦、対日本戦(和田毅から2点本塁打)、オランダ戦で本塁打を1本ずつ記録し、大会最多タイの3本塁打を記録。大会通じて打率.360・10打点と国際大会でもその打撃力は発揮された。、第2回WBC韓国代表に選出される。しかし、大会通じて打率.278、打点5と目立った成績は残せなかった。レギュラーシーズンではWBC代表に選出された選手が相次いで戦線を離脱する中、4年ぶりとなる全試合出場を果たした。チームは前年の3位から4位に順位を下げたこともあり、契約更改では年俸の削減対象とされたが、3000万ウォンの年俸増を勝ち取った。8月14日の対起亜タイガース戦で世界記録となる9試合連続本塁打を放った。8月20日の対斗山ベアーズ戦では李承燁、沈正洙が2003年に記録して以来となる自身初のシーズン40本塁打を放つ。最終的に打率.364、44本塁打、133打点で自身4年ぶり2度目(韓国球界初)となる打撃三冠王を達成。その他、安打数、出塁率、長打率、得点まで7部門でトップを記録するなど、プロ入り後最高の成績を収め、レギュラーシーズン最優秀選手(MVP)にも選ばれた。1月、KBOに年俸調停を申請し調停委員会が開かれたが、本人が要求した7億ウォンではなく、球団側が提示した6億3000万ウォンの年俸が通った。レギュラーシーズンでは打率.357、27本塁打、113打点、OPS1.011という好成績を残したが、MVP投票では投手4冠王の尹錫珉が最優秀選手賞(MVP)を受賞した。2011年オフ、FA宣言。同年12月5日、日本プロ野球(NPB)のオリックス・バファローズへの移籍が発表された(2年契約)。当初希望した背番号10番は大引啓次、52番はアーロム・バルディリスとすでに主力選手が使用していた為、2011年ドラフト会議で指名され入団した新人の佐藤達也に与えられた背番号「25」となった。尚、実は阪神もこの時より以前から獲得を目指していた。開幕戦で4番を務め、チーム初打点となる適時打を放つも、開幕15試合目にして初の長打、17試合目にして初本塁打を記録する等、3・4月は月間打率.233と開幕当初は日本の野球への順応に苦労した。しかし、5月に入ると緩やかに調子を上げていき、5月19日の対東京ヤクルトスワローズ戦では9回表2死の土壇場でトニー・バーネットから逆転2ランを放ち、その裏に同点に追いつかれるも延長戦の末に勝利したチームの連敗を6で止める契機となる一撃となった。すると、この試合から3試合連続本塁打、5月25日の対広島東洋カープ戦では延長10回裏に岸本秀樹からNPBでは初のサヨナラ打を放つ等、5月は月間打率.322、8本塁打19打点の活躍で月間MVPを受賞した。その後も6月2日の対読売ジャイアンツ戦では1試合4安打、7月も打率.338、7本塁打18打点の活躍で、2度目の月間MVPを受賞した。8月以降は疲労からかやや調子を落としていったが、9月8日の対北海道日本ハムファイターズ戦でも延長10回裏に石井裕也から2度目のサヨナラ打を放つ等、随所で勝負強い打撃を発揮し続けた。最終的には全試合で4番打者として出場し、打率.286、24本塁打91打点の成績で打点王のタイトルを獲得し、最下位に喘いだチームにあって主軸として奮闘する働きを見せた。2月、大引が日本ハムにトレードされたことを受けて、背番号をかねてから希望していた10に変更。公式戦の開幕前には、NPBの球団に所属する韓国人選手でただ1人第3回WBC韓国代表に選出された関係で、オリックスの春季キャンプに参加できなかった。韓国代表は3月5日に1次ラウンドB組3位で大会からの敗退が決まったため、同月10日にはオリックスへ合流。オープン戦の終盤から、NPBの実戦に復帰している。公式戦では、7月28日の対西武戦(西武ドーム)において、6回表の打席で空振り三振の判定をめぐる球審の西本欣司への抗議から侮辱行為でNPBでは初の退場処分。その一方で、9月28日の対日本ハム戦(京セラドーム大阪)でNPBでは初の満塁本塁打を放つなど、前年に続いて下位に低迷するチームの4番打者として奮闘した。この年でオリックスとの2年契約が満了する関係で、チームが公式戦2試合を残していた10月8日に出場選手登録を抹消されたが、シーズン通算ではNPBでは初の打率3割と2年連続の24本塁打・91打点を記録。シーズン終了後には、李大浩の意向を受けた代理人が、李大浩の残留を希望するオリックスのフロントと交渉を重ねた。しかし、条件面で折り合いが付かなかったことから、球団本部長の瀬戸山隆三は11月14日に交渉の決裂と李大浩の退団を発表した。12月24日に、福岡ソフトバンクホークスが李大浩の獲得を発表した。保障額は2年総額9億円(推定)で、3年目は李大浩側が選択権を有する契約。背番号は同年からオリックスで着用していた10に決まった。尚、ソフトバンクは1月23日に、オリックス時代の李の通訳だった鄭昌龍の入団も発表している。シーズンは全試合に4番として出場し、ソフトバンクのリーグ優勝と日本一に貢献。自身初の優勝経験となった。個人成績では6月に打率4割を記録して月間MVPを受賞。最終的に来日後最多となる170安打(チームメイトの中村晃に次いでリーグ2位)を放つも、好機には弱く得点圏打率は.244と伸び悩み、打点や本塁打が前年より減少した。には、一軍監督に就任した工藤公康の方針で5番打者に起用。内川聖一が開幕から4番打者を務めていた。しかし、李自身は、内川が欠場した8月13日の対オリックス戦(福岡ヤフオク!ドーム)にこの年初めて4番打者として出場。2安打4打点という成績を残すとともに、3点本塁打を放ったことによって、4試合連続本塁打を記録した。レギュラーシーズン通算では、一軍公式戦141試合に出場。打率は.282に留まったが、31本塁打、98打点という成績で、チームの2年連続リーグ優勝に貢献した。東京ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは、開幕前の肋骨骨折で欠場した内川に代わって、再び4番打者として出場。5試合で16打数8安打2本塁打という好成績を残し、チームをシリーズ連覇に導いた。また、5試合で終了したシリーズでは最も多い通算8打点を記録し、韓国人選手初の日本シリーズMVPに選ばれた。プレミア12では、韓国代表の「4番・指名打者」として全試合に出場。ドミニカとの予選第2戦では、逆転本塁打を放ったことで、チームに大会初の得点をもたらした。さらに、東京ドームで開かれた日本との準決勝(11月19日)では、1点ビハインドで迎えた9回裏無死満塁の打席で2点適時打を放って逆転勝利に貢献。チームはその後の決勝も制して優勝し、大会終了後には、指名打者部門でベストナインに選ばれた。ソフトバンクとの契約期間が2015年で満了したことから、同年11月3日に韓国・ソウル特別市で開いた記者会見で、翌からメジャーリーグ(MLB)に挑戦することを明言。球団では、この会見を受けて、保留選手名簿に李を記載しなかった。12月2日付で、NPBから自由契約選手として公示。李自身は、2015年の12月上旬にMLBのウィンターミーティングへ参加。メジャー契約での移籍に向けて、複数の球団と交渉を進めた。尚、ソフトバンクは李との再契約に5億円の年俸や複数年契約を提示しており、アメリカの球団よりも契約条件は良かったという。2月3日に、シアトル・マリナーズとマイナー契約を締結。3月下旬には、上記の契約を破棄する条項を追加することによって、メジャー契約へ移行した場合の待遇が推定年俸100万ドル+最大300万ドルの出来高になることが報じられた。契約後は、招待選手としてスプリングトレーニングに参加したが、19試合にした出場時点で打率.250、1本塁打、OPS.713という成績にとどまっていた。しかし、前述した契約破棄条項行使期限の3月27日に、メジャー契約へ移行。25人枠入りを果たした。4月4日には、テキサス・レンジャーズとの開幕戦に代打で出場。13日の同カードでは、延長10回裏2死1塁で代打に起用されると、ジェイク・ディークマンからサヨナラ本塁打を放った。マリナーズとのメジャー契約1年目の選手がMLB公式戦で代打サヨナラ本塁打を記録した事例は、球団史上初めてである。2007年に社稷野球場で推定飛距離150メートルの場外本塁打を記録したこともある長打力に加え、身長190cm超えで、体重は100kgを大きく越える巨躯ながら器用にボールを捉える柔軟さを備えている。右方向への流し打ちを得意とし、変化球への対応も良く、打球を広角に打ち分ける。守備では主に長身を活かして一塁手として起用されるが、三塁手として出場したこともある。秋信守(チュ・シンス)とは幼なじみである。李は秋信守に勧められて野球を始めた。高校時代に秋は釜山高校のエース兼4番打者であり、李は慶南高校のエース兼4番打者だったため、二人は友達でありながらライバルだった。李は秋について「他の選手とはレベルが全然違って野球の神様だと思った。小学生の時から秋信守はすごい選手で俺の英雄だった」とコメント。韓国時代から慈善事業に力を入れている人物であり、寄付天使と言われたことがある。韓国時代の愛称は、大きな子供。
出典:wikipedia
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