于 右任(う ゆうじん)は清末から中華民国にかけての政治家・軍人・書家・文化人・教育家・ジャーナリスト。中国同盟会以来の古参の革命派で、国民政府の監察院院長として知られる。名は伯循だが、一般には字の右任を用いて呼ばれる。筆名は、神州旧主、騒心、大風、剥果、太平老人など多数ある。祖籍は陝西省西安府涇陽県。1903年(光緒29年)、癸卯科挙人となった。しかし政治を風刺したとして、清朝の指名手配を受け、翌年から上海に隠れ住んだ。震旦学院を卒業後、学友とともに復旦公学(後の復旦大学)を創設した。1906年(光緒32年)、日本に留学し、中国同盟会に加入した。帰国後の1907年(光緒33年)4月、上海で『神州日報』を創業し、社長となる。この他にも、『民呼日報』、『民立報』などを創始し、革命派の言論・思想を発信した。1912年(民国元年)1月、南京で中華民国臨時政府が設立されると、交通部次長に任命された。翌年3月に、宋教仁が暗殺されると、袁世凱打倒のために二次革命(第二革命)などに参与した。護法運動が開始された1918年(民国7年)に故郷へ戻り、胡景翼とともに陝西靖国軍を組織して、于右任が総司令となった。1922年(民国11年)5月、于右任は上海に移る。そして葉楚傖とともに国立上海大学を創設し、于右任が校長となった。1924年(民国13年)4月、中国国民党第1期中央執行委員に選出された。同年12月に孫文に随従して北京入りしている。1926年(民国15年)9月、于右任は馮玉祥による五原誓師に参加し、陝西省政府主席となった(ただし、石敬亭が代理)。翌年、国民聯軍駐陝総司令として、北伐に呼応する準備を整えた。4月、蒋介石が南京に国民政府を創設すると、于は国民政府委員(同年9月に常務委員)、軍事委員会常務委員に任命された。1928年(民国17年)2月、審計院院長に任命される。1931年(民国20年)11月、于右任監察院院長に任命され、以後死去するまで30数年に渡り、この地位に終身あり続けた。国民党でも、第1期から第6期まで一貫して中央執行委員に選出されている。また、1938年(民国27年)には、国防最高委員会常務委員に任ぜられた。1948年(民国37年)、于右任は副総統選挙に出馬したが敗れた(李宗仁が当選)。国共内戦が終盤にさしかかった1949年(民国38年)に、于は台湾へ逃れている。翌年に国民党評議委員を兼任した。1964年(民国53年)11月10日、台北市で死去。享年86(満85歳)。于は政治家として活動する一方、文化人としても知られ、書・漢詩などで優れた作品を残した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。