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レーニン (原子力砕氷艦)

レーニン()は、ソビエト連邦(現在のロシア)が1959年に就役させた世界初の原子力砕氷船(原子力船)である。船名は、ソ連の指導者ウラジーミル・レーニンにちなんだものであった。ムルマンスクからベーリング海峡までに及ぶ北極海航路は、1932年から夏季のみ運航されていたが、1970年代になると結氷して航行不能になる冬季を含んだ通年の運航も求められるようになった。砕氷船は強力な推進力と長大な航続性能を要求されるため、ほぼ無限の航続力のある原子力船に適任であった。1954年から原子力砕氷船の建造計画が始まり、1956年8月25日に起工されて「レーニン」と命名された。1959年9月12日、レーニンはレニングラード(現・サンクトペテルブルク)のアドミラルティ造船所で竣工し、ソ連政府は全世界にその存在を発表した。レーニンでは原子炉で蒸気を発生させ、その蒸気で発電し電気モーターでスクリューを回転させ推進する原子力電気推進方式を採用していた。最初に搭載された3基のOK-150原子炉(44,000軸馬力)は、ソ連初の原子力潜水艦であるノヴェンバー型原子力潜水艦に搭載されたVM-A加圧水型原子炉と同型であった。全速力を出すには2基の原子炉で十分だったが、3基搭載したのは、もう1基の原子炉を整備や研究に用いるためである。だが、この原子炉は耐用年数が低く頻繁な点検と分解が必要だったうえに、一次冷却水が漏れた際の緊急冷却システムなどが無く、一次冷却水システムが故障した際はすぐにメルトダウンする恐れがある、安全性に問題がある原子炉だった。これらの原子炉は1965年の事故後、1967年にも事故を起こしたため、6回目の航海を終えた1970年代初めまでに2基のOK-900原子炉に換装された。船体は水密防壁により12の区画に分けられており、船体外側は二重底から上甲板まで延びる隔壁で囲まれていた。船体には肋骨構造が広く用いられており、耐氷補強帯とその上下は高張力鋼製の外板で補強されていた。さらに、鋳鋼溶接構造の船首材(30t)と船尾材(86t)が船体を氷から守るようになっていた。この船体により、厚さ約1.5mの氷を割ることができた。船内は温水による暖房が完備されていたほか、ヘリコプター1機も搭載されていた。1959年の就役以後、レーニンは北極海航路確保に活躍したが、1965年2月に原子炉の冷却水が失われる原子炉事故が発生した。この事故は炉心溶解寸前の深刻な事態であり乗組員が最大で30名死亡するなど大きなダメージを受けた。1967年にも原子炉が事故を起こしたため、事故を起こした原子炉は北極海のノヴァヤゼムリャ付近の海域に投棄処分された。この事故を機にレーニンは大改装が行われ原子炉が新型に交換された。これらの工事は1970年春までに完了したが、事故の詳細が明らかになったのはソ連崩壊以後のことであった。この事故の影響で、レーニンは1966年から1972年まで任務から離れていた。1971年5月-6月、レーニンとディーゼル砕氷船「ウラジオストック」による高緯度海域踏破が行われ、この時のデータを基に1970年代末-1980年代初めの北極海航路通年運航が実現した。1974年4月10日には、船として初めてレーニン勲章を受賞した。レーニンは外壁の磨耗による老朽化を理由に、1989年に退役した。その後、母港のムルマンスクに係留されており、2005年からは博物館船となっているほか、サンクトペテルブルクで博物館船にする構想がある。大規模な事故を起こしたレーニンだが、ソ連およびロシアではそのデータを活かしてアルクティカ級砕氷船などの原子力砕氷船を建造しており、レーニン以外に大規模な事故は起こした船は無い。ソ連建国の父であるレーニンの名を冠した船であり、ソ連の科学力の高さを誇る船でもあることから、ソ連時代には頻繁に切手の図案になった。ソ連崩壊後も何度か切手が発行されている。

出典:wikipedia

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