ジャクリーヌ・ド・エノー(仏:Jacqueline de Hainaut)またはジャクリーヌ・ド・バヴィエール(同:Jacqueline de Bavière, 1401年8月16日 - 1436年10月8日)は、エノー女伯・ホラント女伯・ゼーラント女伯。オランダ語名ヤコバ・ファン・ベイエレン(Jacoba van Beieren)。下バイエルン=シュトラウビング公ヴィルヘルム2世(エノー伯としてはギヨーム4世、ホラント伯としてウィレム4世、ゼーラント伯としてウィレム5世)と、マルグリット・ド・ブルゴーニュ(ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公の娘)との間に、ル・ケノワ(Le Quesnoy:現フランス領フランドル、ノール県の町)の城で生まれた。一人娘であったジャクリーヌは、わずか5歳でフランス王シャルル6世の4男、トゥーレーヌ公ジャンと婚約した。幼い2人は、ジャクリーヌの生まれたル・ケスノワで良い教育を受けた。1415年8月、14歳でジャンと正式に結婚した。同年12月、ジャンの兄でドーファン(王太子)のルイが急死したことから、ジャンがドーファンとなった。しかし1417年4月、ジャンはコンピエーニュで急死した。続いて同年5月、ジャクリーヌは父ヴィルヘルムを失う。ジャクリーヌがエノー伯・ホラント伯・ゼーラント伯を継承するのは周知の事実であったが、父方の叔父にあたるリエージュ司教及びバイエルン=シュトラウビンク公であるヨハン3世が反対した。しかしホラント伯領はジャクリーヌを支持した。1418年、ヨハン3世とジャクリーヌの母方の伯父であるジャン無畏公は、自身の甥でジャクリーヌの従弟であるブラバント公ジャン4世の政略結婚を計画し、同年4月にジャクリーヌはハーグでジャン4世と結婚した。ジャン4世はジャクリーヌより年下で頼りなく、結婚生活は幸せではなかった。この時期、絶え間なく続くジャン無畏公との領土を巡る争いで、内戦へ突入しようとしていた。1419年に一度和議が結ばれるが、叔父ヨハン3世との諍いは彼が死ぬ1425年まで続いた。ヨハン3世との確執で、夫からもブルゴーニュ公女である母からも支持が得られないと悟ったジャクリーヌは、イングランドへ亡命した。そこで彼女を迎えたのは、イングランド王ヘンリー5世の弟グロスター公ハンフリーであった。無力な夫との結婚の無効を1422年に対立教皇ベネディクトゥス13世から認められ、ジャクリーヌは同年にグロスター公と再婚した。1422年、ヘンリー5世の急逝によって、ハンフリーは甥の幼王ヘンリー6世の摂政となった。ジャクリーヌは自身の領土の回復を夫に願ったが、状況が変わってしまう。1424年、ジャクリーヌはハンフリーとの子を流産する(生涯4度の結婚で唯一の子であった)。1425年、叔父ヨハン3世が毒殺された。1425年初頭、ハンフリーは軍を率いてネーデルラントへ上陸した。ところがイングランド=フランス間の政治的対立が、ブルゴーニュ派=アルマニャック派の対立と同様に激しくなったことから、彼は妻の抱える問題から距離を置くようになった。勝ち目のない戦いを続ける妻を彼は見捨てる。ジャクリーヌはモンスの攻城戦のあと、ヘントの城で従兄のフィリップ善良公によって逮捕された。ジャクリーヌと彼女の領土に関心を失ったハンフリーはイングランドへ帰国し、妻の女官であったエレノア・コブハムを愛人とした。囚われの身であったジャクリーヌは、男装して幽閉先からの脱出に成功した。ハンフリーは1425年の終わりに、24隻の艦船、2000人の兵士を送り込んだが、ゼーラントの諸都市は抵抗の準備をしておらず、ジャクリーヌを支持する援軍も来ていなかった。イングランド軍はブルゴーニュ公軍の前にあえなく敗退し、ゼーラントをフィリップ善良公が獲得した。1426年2月、ローマ教皇マルティヌス5世は、ジャクリーヌはいまだブラバント公ジャン4世と結婚しており、ハンフリーとの結婚は無効であるとした。これによって結婚の義務から解放されたグロスター公は、愛人のエレノアと正式に結婚した。何の後ろ盾もなくなったジャクリーヌは、自分の領土の復活は不可能だと悟り、デルフトでフィリップ善良公との和議に応じた。彼女はエノー女伯・ホラント女伯・ゼーラント女伯の称号は保持したが、支配権はフィリップ善良公に帰することとなった。また、ジャクリーヌが子供のないまま死んだ場合、フィリップが伯位を継承するものと決められた。そして、実母マルグリット、フィリップ善良公、3伯領の同意なしにジャクリーヌが結婚することを禁止した。この条約により、ジャクリーヌは期待していた以上のものを得た。彼女は幼年時代から伯領の支配者であったが、フィリップ善良公が鋳造した硬貨に初めてジャクリーヌの肖像が刻まれたのである。これは、彼女を支持する一部の者が与えた揺るぎない地位であった。しかし、今や彼女の生活は空虚なもので、まれにしか伯領を旅することはなかった。1430年、フィリップ善良公は、ジャクリーヌの資産を託していたボルセレン卿フランク()へ、ホラント伯領・ゼーラント伯領を抵当に入れた。彼はかつてジャクリーヌの敵の一人であった。しかしジャクリーヌとフランクは1432年に秘密裡に結婚した。そしてブルゴーニュ支配に抵抗してホラントで反乱を計画した。フィリップ善良公はホラントを制圧し、ボルセレン卿を牢へ放り込んだ。ジャクリーヌはフィリップの要求に応じて自身の所領を全て放棄したことで、フィリップは彼女を自由の身にし、ボルセレン卿との結婚を許可した。もはやジャクリーヌは夫の所領で引退同然の暮らしを強いられ、生まれながらの称号であるバイエルン公女、ホラント伯女、そして(フィリップ善良公からボルセレンへ授けられた称号)オーステルヴァント伯爵夫人として知られる存在であった。1434年3月、ジャクリーヌはボルセレン卿と教会で結婚式を挙げた。名目上の伯爵位しかない晩年であったが、ボルセレン卿との結婚は幸福であった。しかし1436年夏、ジャクリーヌは重病にかかり、同年10月にテイリンヘン城で急逝した。肺結核であったとされる。彼女には子供がなかったため、爵位及び伯領はフィリップ善良公が継承した。ボルセレン卿フランクは、妻の死から34年後に死んだ。
出典:wikipedia
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