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十市遠勝

十市 遠勝(とおち・とおいち とおかつ、生年不詳 - 永禄12年10月24日(1569年12月2日))は、戦国時代末期の武将。十市遠忠の子。大和国龍王山城主。初名は新二郎。後に十市遠成と改める。十市氏は大和国十市郡を領したことから始まる。祖に関しては諸説あり、明確なものはない。天文14年(1545年)、父・遠忠が亡くなると家督を継いだが若年ということもあって、父の代から争っていた筒井氏の侵入を許した。天文15年(1546年)8月20日、十市衆を率い、竹内城を攻めて敗れ、吉野に落ち、その与党も柳本に退いた。永禄2年(1559年)、三好長慶の重臣・松永久秀が大和国に侵攻。松永方に対して多武峰などの要所で抵抗戦を展開した。永禄5年(1562年)、畠山高政に属して三好実休を攻略し、和泉国久米田で破って(久米田の戦い)高屋城を奪取した。同年5月、畠山方として教興寺の戦いに参戦するが敗れて湯川直光らが討死している。松永方に抵抗していたが、ついに松永方に降り、娘のおなへ(御料)と重臣・大木重介の子息を人質として多聞山城に送り、からくもその旧領を維持する。永禄10年(1567年)10月10日、東大寺大仏殿の戦いを切っ掛けに三好三人衆と松永久秀が対立し、遠勝は三好方となったため、家中が内部分裂する。永禄11年(1568年)2月20日、秋山直国の森屋城を攻略。3月12日、今井の河合清長の居宅で三好三人衆の三好長逸、篠原長房と誓紙を取り交わす。しかし8月27日、松永久秀に通じた秋山氏の反撃を許して龍王山城から十市城へ退去した。9月、箸尾氏も松永に組し、秋山と策応して十市領の蚕食を企てた。10月に入って、松永久秀は織田信長の援軍2000人を得、ますます攻略にあたった。筒井・十市の連合軍は諸城を連ねてこれに対抗したが、一城また一城と相次いで落とされ、11月には十市衆の守った大西城も、秋山勢を先鋒とする松永久通に降った。十市家にその者ありと知られた森本主水介・中井才三郎などが討ち死にしたのはこの時である。遠勝も遂にその勢いに対抗し切れず、再度久秀に内応するに至った。永禄12年(1569年)10月24日、病死。十市家中は親松永派(十市後室、おなへ、河合清長、伊丹源二郎、田中源一郎、川嶋藤五郎、上田源八郎、森本喜三) と親筒井派(一族の十市常陸介遠長)に分裂。親松永派は遠勝の死去の直後に、高田氏の斡旋で、竹下氏を通じ松永久秀に十市城開け渡しの誓約をなした。元亀元年(1570年)6月、松永久秀は十市遠長に対し十市城の開城を交渉したが応ぜず、7月、筒井順慶以下500人の軍勢を迎えて城を堅めた。元亀3年(1572年)これまで今井の河合清長宅に身を寄せていた十市遠勝後室並びにおなへ(御料)は、柳本城に移った。天正元年(1573年)、松永久秀が信長に降り、逆に筒井順慶は次第に信長に重用され親筒井派である十市遠長のが有利な立場となる。天正3年(1575年)4月27日付けの信長の朱印状をもって十市郷は3つに分割され、信長の家臣・塙九郎衛門尉、松永久秀、十市氏に与えられた。この内、十市氏の分は常陸介と遠勝後室で折半せよとされたが、両派の対立はおさまらなかった。7月、龍王山城でおなへは松永久通と祝言をあげている。天正4年(1576年)3月には松永久通らが十市城に攻め寄せた。ここで信長の仲裁が入り塙小七郎さらに原田備中守が十市城を受け取り、常陸介は河内に退き十市内衆は森屋城に入ってようやく解決している。天正5年(1577年)10月、松永久秀は信貴山城に拠って信長に反抗(信貴山城の戦い)して、討死した。このとき柳本城黒塚砦にあった久通も柳本衆の攻撃をうけ自刃した。天正7年(1579年)、実家に戻ったおなへが十市家の嫡流を主張し、布施氏より婿養子を迎えて家督を継承させると断言。これに遠長側は反発し御家騒動となる。2月、布施次郎は十市後室の養子に迎えられ、おなへの婿となり十市新二郎藤政と名乗り、その家督を相続した。藤政は筒井家の与力として重きをなし、天正13年(1585年)8月に筒井定次が伊賀国に移封となった際にも、これに従って大ノ木庄で1,000石の知行を与えられた。一方、十市常陸介は天正14年(1586年)、羽柴秀吉の十市郷に残る侍衆の所払いに遭い、伊予国に移った。慶長13年(1608年)6月、筒井定次は家臣・中坊秀祐に訴えられて改易となった。このとき十市藤政も牢人となり、一家は離散した。

出典:wikipedia

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