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キョウエイウオリア

キョウエイウオリアは日本の競走馬である。1989年の中山大障害(春)に優勝し、中央競馬史上初めて11歳馬(現10歳馬)による重賞勝利を達成した。1982年2月に阪神競馬場の4歳新馬戦で初出走を迎えたが、スタート直後に躓き騎手落馬により競走を中止する。その後、同年9月までにダート中距離戦を中心に出走したが勝利することはできず、平地12戦未勝利の成績で障害競走に転向した。10月の障害初戦は後方のまま7着に敗れたが、12月11日の障害未勝利戦を2着に2馬身差で勝利すると、同26日に400万以下もハナ差で連勝してオープン入りする。1983年は障害オープンを7着、5着と敗れた後に阪神障害ステークス(春)に出走。5番人気という評価だったが、レースでは先行から押し切り、2着のオサイチセンチに半馬身の差をつけて重賞初勝利を挙げた。しかし、続く阪神の障害オープンでは再びスタート直後に落馬競走中止となり、その後肩不安により10ヶ月の休養に入った。1984年2月のオープンで復帰したが、11頭立ての9着と惨敗し、阪神障害ステークス(春)、京都大障害(春)でもそれぞれ中段のまま4着、6着に敗れた。それからの2年間は目立った成績を残せず、重賞での連対やオープンでの勝利がない状況が続いた。しかし、1986年5月の阪神の障害勝入で先頭から逃げ切り3年3ヶ月ぶりに勝利すると、3ヶ月の休養後、9月の阪神障害ステークス(秋)に出走。序盤からわずかなリードを取って逃げ、最終第2コーナーからトウメイスキーに並びかけられるが、最終障害でトウメイスキーが大きく外に振られると、キョウエイウオリアが内から抜け出してトウメイスキーに2馬身差で同レース2勝目を挙げた。続く東京障害特別(秋)では他馬より4.5kg以上重い61.5kgながら1.8倍の1番人気に支持された。レースではフライングでスタートしたハッピーウォーリアとユーコーフラッシュを見ながら3番手でレースを進めたが、最終第3コーナーで5番手まで下がり、最後直線で盛り返したが優勝したハッピーウォーリアから6馬身差の3着に敗れた。その後繋靭帯炎を発症し1年1ヶ月の休養を強いられた。1987年11月に復帰。ここは4着となるが2戦目の阪神競馬場の障害勝入で勝利。そして次走として翌1988年の東京障害特別(春)に出走した。襷コースの大竹柵を過ぎて先頭に立ったが、向こう正面最初の生垣の飛越で後続に抜かれ4着。オープンをはさんで東京大障害に出走し、直線手前でカルストンイーデンを捕らえて先頭に立ったが、直後にメジロアイガー、残り100mでシノンシンボリにも抜かれて3着という成績だった。秋シーズン初戦の阪神障害ステークスでは水濠で大きくトモを落とし5着、2戦目のオープンは1周目の向こう正面の竹柵で競走中止と不調であり、10歳にして初めて出走した中山大障害では、逃げるカルストンイーデンを見ながら2番手の位置にいたが最後の向こう正面でヤマニンアピールにかわされ、そのヤマニンアピールから1.1秒差の3着に終わった。年明け初戦として2月の東京障害特別(春)に出走。大外13番枠からのスタートながら最初の障害の手前ですでに2番手となり、最後の直線で先頭のブライトプリンスをかわそうとしたところ外からエイシンフェアリーに一気に抜かれ、最後はエイシンフェアリーから1.8秒の大差で2着となった。そして迎えた中山大障害(春)ではそのエイシンフェアリーが単勝1.3倍の断然の1番人気となったが、エイシンフェアリーは1周目の1、2コーナー中間の生垣でアルゴシンボリを巻き添えにして転倒した。キョウエイウオリアは逃げるアサクサステージを見ながら2番手を追走。そして大生垣の飛越でアサクサステージを抜いて先頭に立つと最後の坂路を越えて並びかけようとしたチャーチルシンボリを振り切り、最後伸びてきたメジロマスキットに2馬身の差をつけて優勝した。11歳馬による重賞勝利は中央競馬史上初であり一般競走を含めても初めての勝利だった。8ヶ月の休養後、中山大障害(秋)に休み明けで出走。大竹柵で先頭のオギトレモントが転倒、3番手のアローフォンテンも騎手が落馬したため一時、大きなリードを取って逃げるかたちになったが、大生垣手前の坂路でシンボリモントルーに先頭を譲るとそれからは後退し、最後は優勝したメジロマスキットから5.4秒差の4着に終わり、この競走を最後に引退した。

出典:wikipedia

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