『1000日のアン』(せんにちのアン、)は、1969年公開の歴史映画。16世紀のイングランド国王ヘンリー8世の妃アン・ブーリンの物語。ハル・ウォリス製作、チャールズ・ジャロット監督、ユニヴァーサル映画配給。脚本はマクスウェル・アンダーソンによる1948年の戯曲に基づき、ブリジット・ボランド、ジョン・ヘイルおよびリチャード・ソコロヴが脚色した。元のアンダーソンの戯曲の無韻詩様式は、ロンドン塔でのアンの独白などの数箇所に残っている。本作品は否定的な批評も多く受けたにもかかわらず、アカデミー賞10部門の候補に挙げられ、衣装デザイン賞を獲得した。ユニヴァーサルスタジオでの贅沢な広告キャンペーンでは、アカデミー賞の選考委員にシャンパンとフィレミニョンが供されたという。この映画のベースとなった戯曲『1000日のアン』は、1948年12月8日にブロードウェイのシューバート劇場で初演された。演出はH・C・ポッターで、レックス・ハリソンとジョイス・レッドマンがヘンリー8世とアン・ブーリンに扮し、288日のロングランを記録した。ハリソンはこの演技でトニー賞を獲得した。しかし不倫、私生児、近親相姦というテーマがアメリカの映画製作コードに触れたため、『1000日のアン』の映画化までには20年の年月を要した。映画の撮影はロンドンおよびパインウッド・スタジオ、およびシェパートン・スタジオで行われた。16世紀のイングランド、国王ヘンリー8世は早世した兄の妻キャサリンを娶り、娘を儲けていた。しかし、どうしても世継ぎの男子が欲しく、また年上の妻に飽き飽きしていた。1527年、ヘンリーは宮廷で当時18歳のアン・ブーリンを見初めるが、すでに婚約者がいたアンは、姉が王の愛人として庶子を産んでいたこともあり、同じ境遇になることを拒否する。それでも王は諦めず、婚約を解消させたばかりか、キャサリン王妃の女官として宮廷に出仕するようアンに命ずる。愛人になるよう迫るヘンリーに、アンは決して庶子は生まないと繰り返す。なんとしても息子が欲しいヘンリーは、キャサリンを離婚してアンと結婚するというアイデアを思いつく。アンは驚くがそれに同意する。しかしキャサリンは強大なカトリック国スペインの出身であり、ローマ教皇が離婚あるいは婚姻の無効を認めるはずもなく、教皇の説得に失敗したウルジー枢機卿は解任される。王はついにローマとの決別を決意する。ヘンリーの決断に感激したアンはついに求愛を受け入れる。やがて妊娠を知ったアンとヘンリーはひそかに結婚する。アンは見事な即位式を挙げるが、人々は彼女を「王の売春婦」をあざける。数ヵ月後に、アンは娘エリザベスを産む。ヘンリーは男子でなかったことに落胆し、アンとの仲は冷え始める。ヘンリーの興味はアンの女官の一人であるレディ・ジェーン・シーモアに移る。それに気づいたアンは宮廷からジェーンを追い出す。しかしアンの次の妊娠も失敗する。男子ではあったが死産だったのだ。ヘンリーは大法官トマス・クロムウェルに命じてアンを追い払う方法を見つけさせる。クロムウェルは使用人を拷問することによって王妃との姦通の偽の証言を引き出し、また他に4人の廷臣を姦通の罪で逮捕する。アンもロンドン塔に拘禁されるが始めは馬鹿げたことであると考えていた。しかし自分の兄も近親相姦の罪で逮捕されるに至り、ついに自らの運命を知る。アンは裁判で姦通を自供した使用人マーク・スミートンを尋問する機会を得て、その証言が嘘であったことを認めさせた。その夜、アンを訪ねたヘンリーは、結婚を無効にすることに同意すれば自由を与えると提案するが、アンは拒絶する。それは娘エリザベスを庶子とする提案に他ならなかった。数日後、ついにアンは打ち首となった。ヘンリーはそのとき、ジェーン・シーモアと結婚するために館に赴くところだった。アンの処刑を告げる号砲が鳴り響いたとき、エリザベスは宮殿の庭で歩き方の練習に励んでいた。
出典:wikipedia
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