乾 正信(いぬい まさのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。土佐山内氏の家臣。板垣退助の直系の先祖にあたる。家紋は「榧之内十文字」。甲斐武田氏の家臣・板垣信憲の嫡男として甲斐国で生まれる。父・信憲は板垣信方の嫡男であったが、主君・武田信玄の勘気を被り改易となり、天文22年(1553年)、私怨により本郷八郎左衛門に殺害された。この時、正信は幼少であったため、従者の北原羽左衛門・都築久太夫の両名に供奉され籠居したとされる。正信の弟・板垣正寅は父が殺害された後、生母と共に一旦丹波国へ籠居し、のち京都・南禅寺に預けられて育った。正寅は聡明さを認められて還俗し、京都下御霊神社の斎部信英の女を娶り社家を継ぎ、下御霊神社出雲路家の祖となった。正信は武田氏滅亡後、同じく浪人となっていた孕石元成らと共に乾和三の推挙を得て、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で陣借りして奮戦し遠江国掛川城主となった山内一豊に、同年10月7日に召抱えられた。このとき遠江榛原郡勝間田麻生村に知行136石を下し置かれた(孕石元成も一豊に召し抱えられ200石を賜った)。その後、20人の鉄砲衆を従えて御馬廻役に列した。慶長6年(1601年)、主君・山内一豊が土佐国に封ぜられた際、知行1000石(内200石は鉄砲衆の役料知)を下し置かれた。慶長13年1月17日(1608年3月3日)に病死。土佐土佐郡薊野村(現 高知県高知市薊野東町)板垣山に葬られた。正信の跡は、養子・正行(山内一照の二男)が継いだ。正信は血の気の多い武士であったらしく「家中のもめごとを治める事」という慶長9年(1604年)頃の話の中で喧嘩をした侍の例として取り上げられている。以下『南路志』巻52によると、「ある日の夕方、乾加兵衛正信という侍が馬具もつけていない裸馬に乗って、江ノ口川へ入り、それより比島あたりへ遠馭(とおがけ)に行ったとき、山田久兵衛の従者が一宮村の宿場より帰って来るのに出くわした。山田の従者は、橋の西側の堤の上で正信とすれ違ったが、狭い道のため、堤の下によけて正信を通したところ、(脇に生えていた)竹が(正信の)着物の片方引っかかったため、正信は手綱を手放してしまった。驚いた馬は駆け出し、二、三間走ったところで、正信は落馬した。…がすぐ立ち上がり、その従者を一討ちして正信は帰って行った。この事を聞いた山田久兵衛は、すぐさま正信宅へ討ち入って、『たかが出会いがしらのいざこざで、その後従者を一討ちにするとはどういうことか!』と久兵衛は怒り、『この上は果し合いをして決着をつけてやるからな!』と言い残して、山内一豊公へ陳情したところ、『双方の言い分にはもっともなところがあるが、些細な喧嘩で日ごろから信認している侍(原文「御調法の侍」)を無くすのは残念である。この上は、久兵衛には一豊の顔に免じて許してやってくれ。それから正信は、やはり対処の仕方を誤っておったので、しばらくは寺に入って謹慎しなさい』と言われ、20日間ほど吸江寺で謹慎したので、許されて以前の職務に戻った」と書かれている。正信が知行1000石を賜うという破格の扱いがあったのが、「名将の胤を以て」という理由かどうかは定かでないが、一豊にとって「御調法の侍」であったことは確かである。
出典:wikipedia
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