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函館西部地区の町並み

函館西部地区の町並み(はこだてせいぶちくのまちなみ)は、北海道函館市にある北海道遺産に選定されている町並みである。函館市街西部に位置する函館山麓の地区は、函館市の発祥の地とされているが、一般的に西部地区の町並みという呼び方は、元町、末広町、大町、豊川町および弥生町の各一部にあたる重要伝統的建造物群保存地区をさす。函館の代表的な観光地となっている。西部地区の町並みと呼ばれる伝統的建造物群保存地区は、函館山と函館港に囲まれ、この地区がもっとも繁栄していた明治末期から昭和初期にかけての洋風・和風・和洋折衷の建物が多く残る地域である。これらが、函館山から函館港に向かう坂道や路面電車が走る街路と調和して特色のある町並みを形成している。元町、末広町を中心とした14.5ヘクタールが「函館市元町末広町伝統的建造物群保存地区」の名称で、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されており、北海道遺産にも選定されている。保存地区は大まかに二つのゾーンに分けられる。一つは主に山麓の傾斜地に広がる元町を中心とする地区で、函館ハリストス正教会復活聖堂、カトリック元町教会、旧函館区公会堂や元町公園などがこの地区に含まれる。行政・文化の中心地としての歴史性を持ち、外国文化の影響を受けた公共施設や宗教的建造物が建ち並ぶ。もう一つは、函館港沿いの旧金森倉庫を中心とする地区で、赤煉瓦の倉庫や和洋折衷の海産商の旧宅が立ち並び、港町のにぎわいを今に残している。函館市電青柳町停留場から谷地頭停留場にかけての電車通りの坂道。1878年(明治11年)に尻沢辺の谷地を埋め立て、その時にできた切通しができて谷地頭発展の基となった。電車を配した観光ポスターや映画、CMロケ等によく使われる。青柳町へ向かう坂ということからこう呼ばれる。坂の途中にある青柳小学校の校舎は函館大火の復興校として1935年(昭和10年)に建てられたもの。市電宝来町停留場からまっすぐ登っていく坂、アサリの貝殻がたくさん出たことからこの名が付いた。ここでジョン・ミルンがエドワード・S・モースと貝塚を発掘している。坂の上に石川啄木の居宅跡がある。啄木の函館滞在は4か月ほどだが、最も充実していたという。「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」の歌もここの情景と考えられる。「汐見坂」ともいう。昔は「招魂社の坂」や「倒産坂」という呼び名もあった。この坂に面して門を立てるとばちが当たってかまどがつぶれるといわれた由来がある。グリーンベルトには高田屋嘉兵衛の銅像が立っている。谷地頭に向かう坂ということからこの名がある。谷地頭は、かつて行楽地として当時の市民に親しまれた場所である。江戸時代、蝦夷地が幕府の直轄地になった際、北方警備を命じられた南部藩の陣屋(南部陣屋)があったことからこの名が付いた。かつて、この坂の入口にデパートの丸井今井函館店があったため、「丸井さんの坂」とも呼ばれた。旧丸井今井の建物は現在、「函館市地域交流まちづくりセンター」として利用されている。坂の頂上には函館山頂に向かう函館山ロープウェイの駅がある。かつては「大工町坂」とも呼ばれた。明治12年(1879年)の大火のあと、防火帯として坂の拡幅が行われ、その幅が20間(約36m)あったことからこの名前が付いた。明治33年(1900年)に建設された函館山の要塞に大砲を運ぶための道路として使われた。昔、木下という人が住んでいたので、この坂は「木下の坂」と呼ばれていたが、その後「大三」という屋号の郷宿ができたので大三坂と呼ぶようになった。この大三には、箱館奉行所に公用で来る人が泊まったという。昭和62年(1987年)に「日本の道百選」に選ばれた。坂の上には、函館ハリストス正教会復活聖堂、カトリック元町教会、函館聖ヨハネ教会が建っている。函館では珍しいアイヌ語由来の地名。大三坂の上にあり、ハリストス正教会横から函館山に向かって伸びる急坂で、この坂を登るとき、だれもが老人のように腰をかがめることからこの名前が付いた。老人のことをアイヌ語で「チャチャ」と呼ぶ。かつて、この坂の上に函館八幡宮があったことからこの名前がある。函館八幡宮は1878年(明治11年)の大火で焼失、現在地である谷地頭に移転したが坂に名前が残った。まっすぐ港に向かう坂で、真正面に連絡船桟橋跡と旧青函連絡船函館市青函連絡船記念館摩周丸が見えるので、人気の観光スポットである。八幡坂の上には北島三郎や辻仁成の出身校である北海道函館西高等学校がある。港が一望でき、天気を見る(日和見)ことが出来る坂ということでこの名がある。坂の上には保延元年(1135年)建立の北海道最古といわれる船魂神社がある。義経伝説を持つ神社でもある。かつて函館から札幌に向かう札幌本道の起点であり、里程を図る道路元標が置かれていたことからこの名前が付いた。坂の上の元町公園一帯は過去に箱館奉行所、開拓使、開拓使函館支庁、函館県庁、渡島支庁がおかれ、行政の中心地であったことから、「御役所坂」「御殿坂」とも呼ばれた。かつて浄玄寺(現、真宗大谷派函館別院)があり、「東(本願寺)の坂」と呼ばれ、その名が残った。途中に函館中華会館がある。弥生町にあった坂だからという説と、坂の途中の弥生小学校にちなんだという説。1934年(昭和9年)の大火後に春のような繁栄を願ってつけられたという説があり、坂の名が先か後かは判然としない。前出した弥生小学校は、石川啄木が臨時で教員をしていた。江戸時代にこの坂の上に屋敷があり、そこに奥州の「義経腰掛の松」という銘木の種を得たという大木の松があった。それで常盤の松にちなんでこの名が付いた。この坂の麓の方は別名「見返り坂」と呼ばれる。そのわけは、この坂の下にかつて遊郭があり、楽しんだ客が名残を惜しんで見返り見返り帰ったことにちなむ。また、坂の上には芝居小屋があり、「芝居町の坂」とも呼ばれたことがある。かつて、この坂の上に、江戸の吉原を模した遊郭があったことにちなんだ名前である。この一帯は茶屋町と呼ばれ、遊女たちの艶姿が見られたことでこの名がある。この遊郭は明治4年(1871年)大火で焼失し、遊郭は蓬来町にうつった。坂の上に神明社があったので、もともとは「神明坂」と呼ばれていた。町の名が幸町になったので、坂の名前も多幸を祈ったのかこの名前になった。諸説あるが、近くにあった千歳の松に由来するといわれる。1879年(明治12年)の大火をはじめとして大火のごとに街区整理されたため、坂道も変遷している。この坂のあった場所も、かつては「神楽坂」という細い坂があったが、大火後の区画整理でこの坂になった千歳坂の名も、この頃から使われだした。港に出入りする船がよく見られたのでこの名が付いた。かつては、称名寺まで通じていたため「称名寺の坂」とも呼ばれる。西部地区の一番西にある坂。坂の入口に市電函館どつく前停留場がある。山背泊に来る魚群を見ることからこの名が付いた。かつてこの一帯は台町と呼ばれ、その由来は安政3年(1856年)に弁天台場が築かれたことによる。それでこの坂を「台町の坂」と呼ばれたこともあった。坂を登った先には、高龍寺や外国人墓地がある。

出典:wikipedia

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