タヒチ語 () はオーストロネシア諸語の東マレーポリネシア語派に属し、フランス領ソシエテ諸島のタヒチ島およびその他の島々で話されている言語。東マレーポリネシア諸語の一角をなし、タヒチ諸語の中心的な言語とみなされる。タヒチ語は「レオ・マーオヒ (reo mā’ohi)」諸語の中で最も重要な言語である。「レオ・マーオヒ」は、フランス領ポリネシアで話されている言語を一括りにしたもので、「語群」でまとめられる言語の集団を越えたものである。「レオ・マーオヒ」には、タヒチ語の他に以下の言語や方言が含まれる。これらの言語は発音が異なることもあれば、互いに意思疎通ができない場合もある。この地域で様々な言語の話者が意志疎通を行うのにフランス語が最も標準的な言語であり続けていることを除けば、実際タヒチ語は、話者人口の多さから、また地域の行政やコミュニケーションの手段として用いられることから、フランス領ポリネシア住民の多くに理解される。他のポリネシア諸語と同じく19世紀までタヒチ語には書き言葉がなく、文字によらず口承によって存続していた言語だった。タヒチ語を初めて文字で表す作業を行ったのはロンドン宣教師協会の宣教師らだった。タヒチ語が話し言葉のみの言語だったこと、最初に文字で記したのがヨーロッパ人だったことから、ラテン文字が多少独自の特徴を加えつつこの言語の表記に使われている。タヒチ語の成立は、他のマレーポリネシア諸語と同様に、それらの祖語を担った話者集団の太平洋の様々な島々への移民・定住をその契機とする。この移住によりタヒチ語を含む諸語の祖語はポリネシアに散らばる38の言語に分化することになる。この分化は言語変化の速さだけでなく地理的な拡散の速さの結果でもある。紀元前1600年から1200年の時期にラピタ文化が発達し、ニューギニアからフィジー、トンガ、サモアにまで広まった。これらのうち最後の二つの島から他の島への移民・定住が紀元前300年頃に始まった。フィジーはメラネシアの文化・言語圏で、近隣のトンガやサモアへの移住の出発点だった。この3島を結んでできる三角形の中で、ラピタ文化のために太平洋に広まっていたメラネシア諸語から派生したフィジー・ポリネシア祖語が形成された。メラネシア文化圏にありこの文化と強くつながっているフィジーは、例えばメラネシア文化が陶器を使わなかったのと同じく新たな文化を生み出さず、文化の革新を継続させたトンガやサモアとは異なっていたが、フィジー・ポリネシア祖語と同様ポリネシア文化が形成されたのはこの三角形の中だった。メラネシア文化とは異なる特異性を持ったこの新しい文化がポリネシア文化の起源だった。結果として、紀元前300年にトンガとサモアから航海が始まると、メラネシア海の文化とは違う独自の文化が輸出された。そしてこの文化とともに将来ポリネシア諸語の起源になる新しい言語がもたらされた。トンガとサモアで始まった移民は、クック諸島、タヒチ、トゥアモトゥ諸島という経路を通り、マルキーズ諸島で終わった。この最初の移民で、トンガ諸語、サモア諸語、タヒチ諸語、マルキーズ諸語とポリネシア諸語内で大きなグループ分けがなされた点が注目される。これらの祖語は将来派生する言語群の初期段階となり、のちにはその祖語と同じ名を持つ下位集団を形成することになる。そのうち現在存続する唯一のものはトンガ祖語であり、トンガ語とニウエ語にわかれる。さらに、トンガ語は38のポリネシア諸語の母言語として再建されるポリネシア祖語に最も近い言語である。タヒチ祖語が、中央ポリネシア(クック諸島、ソシエテ諸島、トゥアモトゥ諸島)そしてもっと後にオーストラル諸島に定住した最初の移民の波の間どのように形成されたのかは重要である。タヒチ語の源流はポリネシア文化があった時代の初期には既に見出せる。その変化の後期段階では特徴的な音素のうちいくつかが失われ、タヒチ諸語の他の言語ではこれらが現在の形に変化している。それぞれの地域が孤立していたため、起源を共有していても話者間の頻繁な交流はなく、下位の言語集団が断絶・分断し各言語ごとに個別の変化を遂げ独立した言語が生まれた。西暦1000年頃にこのポリネシア中心部から新たな移民が始まり、この時に既に形成されていた言語のうちタヒチ系言語の使用地域が拡大した。マルキーズ諸島を発った人々が400年頃にハワイで人口を増やしたのと同様に、11世紀にはソシエテ諸島やクック諸島を含むタヒチ諸語の中心部からニュージーランドへの移住が行われた。つまり、マルキーズ諸島の言語と同じように、移住によってタヒチ系言語圏が大幅に拡大したということである。ニュージーランドではやがてもう一つのタヒチ系大言語、マオリ語となる言語が形成された。マオリ語とタヒチ語が双子の言語であるとも、一方がもう一方から派生したとも言えない。片方をタヒチ語、もう片方をクック諸島のマオリ語と呼ぶのと同じ具合に、マオリ語がタヒチ語の方言とは別に発展した結果であると見るべきである。タヒチ語、マオリ語、クック諸島のマオリ語の3言語は、それぞれの諸島・群島の各々に分かれて発展と変化を経たのち、タヒチ系言語圏を大きく広げた。例えば、マオリ語が [k] と [ŋ] を残している一方で、タヒチ語はそれを残しておらず、調音の緩みや速い発音により単純化され、無声の声門閉鎖音 ([ʔ]) となった。以下の表でタヒチ語、マオリ語、クック諸島のマオリ語の単語を比較する。文字を持っていなかったポリネシア系言語の性質上、タヒチ語は他のポリネシア諸語と同じくその発展と変化の過程をたどるのが難しい。また文字がなかったことで、書き言葉による特定の変化が言語を固定させることは起きなかった。このこと自身のためにタヒチ語がタヒチ諸語から分化し成立した時点を正確に算出するのは難しい。民族学や植民地化の研究のような他の資料のみがポリネシアにおける言語の拡散とそれに続く分化を説明できるが、タヒチ系方言からタヒチ語への発展のように資料のない内的な変化を明確にとらえることはできない。タヒチ語の最初の文献が現れ、南海を探検していたヨーロッパ人の手に渡ったのは18世紀になってからであり、それさえも間違いが相当あり声門閉鎖音や長音の書き漏らしも多く、19世紀初めにタヒチに到着したイギリス人宣教師の文書も同様だった。タヒチ語のみを扱った本が出版されたのは1810年になってからだった。1881年にフランスがタヒチとソシエテ諸島を植民地として併合すると、フランス語がポリネシア系言語圏に流入し、独自の言語と文化を代償としてタヒチ社会に文化変容をもたらした。オーストロネシア系言語にあってタヒチ語のみが14の音素、すなわち9個の子音と5つの母音を用いる。長母音を数えるならばこの数は19になる。そのため、ロマンス諸語と比べるとアルファベットは簡潔であり、必要なのは14の文字だけとなる。以下がタヒチ語のアルファベットである。’eta(エタ)はポリネシア諸語に特徴的な文字である。これは声門破裂音を表しており、子音である。この文字はハワイ語の「オキナ (ʻokina)」とは異なり、アポストロフィ (’) であるが、タイプライターにこの字がない場合は引用符 (') で代用することもできる。これはフランス領ポリネシアでタヒチ語の正書法と文法の規範化を受け持つ公的機関、タヒチ・アカデミーが採用している方法だが、タヒチ文献学界で一致して受け入れられているわけではなく、ラーポト式のように別な正書法を用いる教員やメディアもしばしば見られる。創始者のトゥロ・ア・ラーポトにちなんで名付けられたラーポト式正書法では、声門破裂音を伴う母音を重アクセント記号を用いて à, è, ì, ò, ù と表す。長母音はラーポト式、タヒチ・アカデミーとも長音記号で表すが、長母音が声門破裂音を伴う場合は曲アクセント記号を用い â, ê, î, ô, û とする。ただしこの方式は、タヒチ・アカデミーの正書法の導入が進み最も広く受け入れられているため、劣勢になっている。さらに、タヒチ・アカデミーの正書法はタヒチ語と同系であるトンガ語やサモア語、ハワイ語で採用された正書法に倣ったものであり、このことがタヒチ語の他の正書法に対する論戦に強みを与えている。いずれにしても、タヒチ語は語頭でエタを多用するのが特徴であり、音を文字で表すことや大文字の扱い、アルファベットでの順序などが問題となる。タヒチ語の音声体系は以下の通り。
出典:wikipedia
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