『駿河城御前試合』(するがじょうごぜんじあい)は、南條範夫による日本の時代小説。1956年『オール読物』2月号に第一話「無明逆流れ」が掲載され、その後1962年までにかけて飛び飛びに数誌に全12話が掲載された連作短編小説。寛永御前試合の粉本(下書き)であったとされる寛永6年(1629年)の駿府城主徳川大納言忠長の11番の御前試合をモキュメンタリーの設定で描いた作品である。その内容も「寛永御前試合」(徳川家光の御前試合)の結果と同じく、11番のうち8組に勝敗あり、3組が相打ちとなっている。ただし駿河城御前試合では真剣をもって行われ、各試合の敗者は死し、相打ちでは両者が死すという悲惨な結末となっており、南條範夫の残酷物と呼ばれる作風を象徴している。南條範夫の小説『武魂絵巻』には、『駿河城御前試合』が一エピソードとして数ページに渡り11番勝負の概略が記されており、12話「剣士凡て斃る」にて数行にて記された内容の詳細も描かれている。また、徳川忠長が次第に狂気に陥って行った描写も『武魂絵巻』のほうに詳しい。寛永6年9月24日、徳川大納言忠長の面前で真剣を用いて上覧試合が行われた。11組中で8組は一方が相手を殺しており、あとの3組が相討ちという凄惨な試合で、城内南広場に敷きつめられた白砂は血の海と化し、死臭があたりに漂い、見物の侍さえもひそかに列を退き、嘔吐する者もあった。しかし忠長は終わりまで平然とその試合を見届けたという。この試合については、忠長のその後の所行のこと、及び試合の凄惨さのために流伝することは禁じられたが、席上に居合わせた者がひそかに書き残したものが読み伝えられて寛永御前試合として知られるようになったといい、その実態は静岡県在住某氏家伝の「駿河大納言秘記」写本にて伝えられたものとされる。第1試合は見物者を大いに驚かせた。西側から現れた剣士・藤木源之助は、左腕のつけ根から先が無かった。それに付き添うのは20歳位の美女・三重。一方、東側の剣士・伊良子清玄は右足を引きずるだけでなく盲人だった。そして、彼にも年増ながらも凄艶な美女・いくが付き添っていた。だが、周囲がさらに驚いたのは清玄の異形の構えだった。それは盲人が地面に杖を突き立てるように、剣を突き立て、跛足の指で挟むという奇怪な構えだった。それはあらゆる流派で見た事も聞いた事もない構えであり、これこそ、城下でも評判の無明逆流れという秘剣だった。対峙する2人の剣士、そしてそれを見守る2人の女、この4名には逃れられぬ因縁があった。第2試合は、駿河藩藩士・座波間左衛門と女性薙刀使い・磯田きぬだった。いかにきぬが薙刀の使い手といえど、間左衛門は家中でも武芸絶妙と周囲からも評判の剣士。この試合、間左衛門の勝利は揺ぎ無いものと予測されていた。だが、周囲の者は勿論、出場者であるきぬ自身も知られざる事があった。この試合は他ならぬ間左衛門の抑えがたい性癖によって巻き起こされたものであった。第3試合は、出場剣士・月岡雪之介に対して、同じく出場剣士・黒川小次郎が仇討ち試合を望むという内容であった。だが、出場剣士である雪之介は殺生を望まない温厚な人柄。対する小次郎も雪之介を恩人として尊敬している人物であった。この2人が第3試合に組み込まれたのは、刀を抜くと必ず人を殺めるという因果な運命を持つ雪之介が仇討ち試合を招いたものであった。そして、その彼が体得したという「不殺剣」に興味をもった家老・三枝伊豆守の計らいによって御前試合に組み込まれた。必殺の剣に対して不殺の剣がどのような結果となるかと周囲の思惑を他所に、両名の剣士は凄惨たる御前試合に結びつく。第4試合は駿河城槍術指南・笹原修三郎と浮浪人・屈木頑乃助の組み合わせであった。だが、この試合が果たして無事に行われるかは誰一人として分からなかった。というのも、頑乃助は駿河城下において名だたる剣士達を殺害したという凶漢。噂では富士の風穴に潜んでいると言われているが、定かではなかった。多くの者は修三郎の勝利を予想していたし、また願ってもいた。しかし、同時に頑乃助が勝利するのではないかという危惧の念を抱いていたのも事実だった。かつて駿府城下の舟木道場の下男であった頑乃助をここまで一躍有名人にしたのが、毎年5月5日に同道場にて行われる兜投げの武技と当主・一伝斎の娘である千加の婿選びがきっかけであった。凄惨たる御前試合も午前の部最後である第五試合を迎えた。しかし、出場剣士である2人の姿が全く姿を現さない。この試合自体が、2人の望む形で組み込まれたものである以上、何か不慮の事故があったとも考えられた。だが、午後の部である出場剣士もいない以上、代わりの試合を執り行う事も出来ない。忠長の顔が険しくなる中、城の者達は早急に出場剣士を捜索すると、既に場外にて死闘が始まっていた。両者とも刀を構え、その身体には幾つもの傷跡を残していた。結果的に両者はそのまま試合場に乱入、このまま試合を執り行う事となった。この両者、元は同じ道場の門弟であり、竹馬の友であった。その2人が試合前から争う事となったのは青年時に生まれた僅かな溝からの宿縁であった。ある日、江戸の土井大炊頭利勝は駿河大納言・徳川忠長を擁して家光を除こうとするという密書を有力大名達に送った。しかし、どの大名もこの謀反に加担しようとせず、密書を老中・酒井雅楽頭忠世に送り返した。実はこの密書、利勝と忠世が大名の動向を探る為の策であった。しかし、それから数日後、またしても大名から密書が届けられた。それは先の密書と同じ内容であったが、その署名には忠長の家老・朝倉筑後宣正と記されていた。駿河大納言・徳川忠長が実兄の家光に不満を持っている事は明確であった。この密書には忠長の謀反、そしてそれに加担する大名を匂わせるものがあった。半年前、駿河藩に召抱えられた津上国乃介。実は国乃介は利勝から遣わされた忍びであり、謀反に加担する大名を探る為に潜入していた。折りしも奥祐筆・児島宗蔵もまた忍びである事を知った国乃介だったが、双方を忍びとして怪しんでいた藩上層部は国乃介と宗蔵を午後の部最初の第6試合に組み入れ、探りを入れようとしていた。二刀流剣士として名を馳せた宮本武蔵。しかし、寛永の初めには未来知新流なる二刀流の流派が存在しており、武蔵の流派・円明流とは全く別の流儀として隆盛していた。しかし、この流派は開祖・黒江剛太郎の討死によって急速に廃れていく事となる。その討死の場が、寛永6年9月24日での御前試合だった。剛太郎自身は周囲に必勝を豪語しており、殆どの者が剛太郎の勝利を予測していた。だが、剛太郎と共に興った未来知新流は、剛太郎の死と共に滅びる運命を辿った。第8試合は、他の試合と違った趣向であった。それは、陣幕突きの実演を兼ねた試合であった。この陣幕突き、元々は戦国の世に生み出された秘術であり、太平の世である今では習得するものはほぼ皆無といってもよかった。だが近年、駿河藩に仕官した進藤武左衛門はこの秘術の遣い手だった。一方、それに対して不審を抱いている小村源之助は、この試合にて武左衛門の陣幕突きを確かめようとする。第9試合は、これまでの試合と違って甲冑で身を固めた上での騎馬戦であった。これは、実戦経験のある老藩士・芝山半兵衛が、経験の無い若い藩士・栗田彦太郎を挑発した事から始まった。だが、試合当日、出場者の2人ともが入れ替わり、別々の者同士が参加していた。そして、この試合後に語られる事のない、もう2つの死闘が繰り広げられた。何故、1度ならず、2度、3度と死闘が繰り広げられたのか。芝山新蔵は、栗田二郎太夫の娘、きよと恋仲であり、嫁にと申し出たが、新蔵の父である芝山半兵衛と付き合いが長く、気難しいこと知っている二郎太夫は、この申し出を断った。これに腹を立てた芝山半兵衛は栗田彦太郎を挑発。売り言葉に買い言葉で、御前試合にて甲冑を身に着けた実戦形式で試合を行うことになった。芝山の家では、普段は腰が痛いなど言っている老人である半兵衛を心配し、一方の栗田の家でも半兵衛の武術の腕前は確かであり、彦太郎では勝てないと心配をしていた。試合の前日も稽古を行っていた半兵衛は持病の神経痛を起こし、試合当日の朝になっても起き上がることさえできない。そこで、新蔵が父に成りすまして試合に出ることにした。一方の栗田の家では、彦太郎を縛り上げ、二郎太夫が代わりに試合場へと向かった。鎧兜に頬当てまで付ける試合だったため、互いに入れ替わったことが判らず、違和感を覚えながらも戦った。試合は経験に勝る二郎太夫が新蔵の喉を槍で貫いて決着となった。試合後、二郎太夫の槍について血を見て、半兵衛が殺されたと思ったきよは、新蔵に謝るべく芝山家に走る。彦太郎もきよを追って芝山家へ走った。芝山家では新蔵の死体を目の当たりにした半兵衛が怒り狂い、神経痛も忘れ槍を手に飛び出す。そこで目にした彦太郎を一突きに命を奪った。その夜、お互いの事情を知った老人2人は鎧兜に身を固め壮絶な戦いの末、双方絶命した。第10試合、それは新当流剣士である藩士・成瀬大四郎と藩士・笹島志摩介であった。この大四郎、藩中でも「石切り大四郎」という異名を持つ凄腕の剣士だった。だが、大四郎には人に知られぬ2つの悩みがあった。1つは、彼は1度しか石を切った事がなく、以後成功した例がなかった事。そして、もう1つは美貌の妻・絹江が不誠実な女であり、不義密通が日常茶飯事だった事。一方、志摩介は大四郎にその高い剣術を推薦されて仕官した人物で、美形な顔立ちに、数々の秘剣を体得している志摩介であるが、実はこの秘剣1つ1つには忌むべきものが隠されていた。既に多くの死者と血を出した御前試合。その最後を飾るのが、かの剣聖・塚原卜伝が興した新当流並びにその諸派代表者同士の試合だった。だが、この試合の経緯には多くの剣士達が悩み苦しみ、そして無残に斃れていった。このような事態に落ちいった理由は、一羽流代表剣士・水谷八弥の非道な謀略と、卜伝の血を引き、さらに一瞬で男を虜にする程の美貌を持つ阿由女にあった。卜部晴家は毎年一門を集めて鹿島神宮境内にて野外試合大会を開催していたが、その年の優勝者には駿府への出仕推薦がなされた。また、阿由女を娶って卜伝流正統を継ぐという栄誉が与えられる可能性が高かった。今年の参加者に一羽流の水谷八弥が参加したが、八弥もまた阿由女に惚れ、物にせんと策謀をめぐらせ有力者3人を試合前に謀殺した。更には、3人の殺したのが卜部晴家の疑いがあると唆し、卜部新太郎を江戸へと出奔させ、優勝者に納まる。しかし、阿由女は新太郎と好き合っており、八弥を振ると江戸へ新太郎を探しに向かう。阿由女を追って八弥も江戸へ。阿由女が身を寄せた江戸の新当流道場で双竜と称される2人も阿由女に惚れたが。八弥は、そこを突いき、また鹿島での謀殺を新太郎によるものと謀って、新太郎を闇討ちすることを双竜の2人に唆した。しかし、新太郎はこれを返り討ちにし、八弥へ駿府での再会を言い残して江戸を立つ。御前試合で、決着をつけることになった八弥と新太郎だが、試合前に新太郎は八弥に斬られてしまう。ところが、試合には、新太郎の代わりに父の卜部晴家が出場することになった。晴家は、捨て身の一撃で八弥の腕に深手を負わせたものの、額を割られ死亡。しかし、勝利を収めた八弥の脇腹に、阿由女が短刀を深々と突き刺す。薄れゆく意識の中、八弥は阿由女の身体を斬った。卜伝流の剣士たちは、ここにそのことごとくが斃れた。試合場に敷きつめられた白砂は血の海と化し、あたりには死臭が漂った御前試合。凄惨たるも、数名の生き残りを出して終わった。だが、その生き残りも因果な運命に翻弄される。御前試合の出場剣士達に穏やかな終わりは無かった。試合を生き延びた藤木源之助、小村源之助の両名は密かに磯田きぬに思いを寄せていた。徳川忠長もきぬを夜伽にと欲し、これを畏れて、藤木、小村の両名はきぬを連れて城下を逃げ出す。逃げた3人の追手には、片岡京之介と笹原修三朗が加わった。小村は片岡と、藤木は笹原と闘いそれぞれ相討ちになる。捕えられたきぬは、忠長の夜伽を命ぜられるが、きぬは懐剣で胸を突き自害する。
出典:wikipedia
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