マーチ・エンジニアリング(March Engineering)はイギリスのレーシングカーメーカーで、フォーミュラカーからスポーツカーまで多くのカテゴリーのレーシングカーのシャシーを生産、市販している。名称の由来は、チーム設立にかかわった、マックス・モズレー(M)、アラン・リース(AR)、グラハム・コーカー(C)、ロビン・ハード(H)の頭文字をとったものである。F1にもコンストラクタとして各チームにシャシーを供給した他、自らのチームを立ち上げて参戦したこともある。F3やF2、グループCなどのヨーロッパのカテゴリーだけでなく、チャンプカーやIMSA GTPなどのアメリカンレースのカテゴリーにもシャーシを供給した。1969年にF3車両「693」を作成し、活動を開始した。この車両のドライバーはロニー・ピーターソンが務めた。翌1970年には「701」を作成し、F1への参戦を開始した。マーチは自らチーム運営するだけでなく、前年のチャンピオン、ジャッキー・スチュワートの所属するティレルにも車体を供給した。ワークスチームはSTPのスポンサードを受け、クリス・エイモン、ジョー・シフェールをレギュラーとし、数戦でマリオ・アンドレッティがドライブする体制で参戦開始した。参戦2戦目のスペインGPではスチュワートが早くも優勝を飾り、コンストラクターズ選手権では3位となった。同1970年、マーチはCan-Amにも参戦を開始し、最初の車両は「707」と呼ばれた。1971年にも、ロニー・ピーターソンが4回の2位を含む5度の表彰台を獲得するなどの活躍を見せるが、1972年にはアルファロメオ製ギアボックスを搭載した新型721Xが失敗作に終わり、1973年にはSTPがスポンサードを打ち切った。1974年にはイタリアの工具メーカーBetaをメインスポンサーとして獲得した。翌1975年のオーストリアGPでは、大雨の中ヴィットリオ・ブランビラが自身のF1初優勝を果たした。この優勝は「モンツァゴリラ」ことブランビラのキャリア唯一のものとなったが、この時のブランビラはゴール後にマシンをスピンさせ、ガードレールにクラッシュしてしまった。また、スペインGPではラバッツァカラーの車両をドライブしたレラ・ロンバルディが6位に入賞し、女性としてF1史上唯一(2012年現在)のポイント獲得を果たした。1976年は、シーズン序盤にロンバルディに代わりマーチに復帰したピーターソンが、イタリアGPでマーチに3勝目をもたらしたが、これがチームの最後の優勝となった。1977年はノーポイントでシーズンを終え、この年のシーズン終了後にチームはATSへ売却され、モズレーはFOCAの仕事に専念することとなった。1978年はプライベーターとしてパトリック・ネーヴェがベルギーGPに781をエントリーしたが、予備予選から走行しなかった。781は2台製作され、British Formula One Seriesで使用された。ベルギーGP以外には、世界選手権にマーチの車両はエントリーされなかった。1978年からの3年間には、BMWエンジンとともにF2へシャーシを供給した。また、1981年と1982年にはRAMへシャシーを供給するが、特筆すべき成績を記録することはできなかった。国際F3000へは初年度の1985年よりシャシーを供給し、1985年にクリスチャン・ダナー、1986年にイヴァン・カペリ、1987年にステファノ・モデナと次々にチャンピオンを輩出した。1987年には日本のレイトンハウスをメインスポンサーとして、1台体制ながら久しぶりにF1に復帰した。ドライバーは、レイトンハウスオーナーの赤城明が目をかけていたイタリア人のイヴァン・カペリ。緒戦のブラジルGPは車両が間に合わず、ほぼF3000車両そのものの87Pを持ち込み、決勝には出走しなかった。第2戦のサンマリノGPでようやく本来のF1車両、871を持ち込んだ。非力なコスワースDFZエンジンを搭載し、予選ではターボ車が上位を占めたことから後方に埋もれることが多かったが、自然吸気(NA)エンジン車の中では健闘を見せた。ベストリザルトは混戦状況の中カペリが安定した走りを見せたモナコグランプリでの6位入賞だった。1988年には空力に優れ、自然吸気エンジンながら高い安定性を持つジャッドエンジンを搭載した新型マシン、マーチ・881を投入。マウリシオ・グージェルミンとの2台体制になり、シーズン中盤以降にはしばしば上位を走行した。エイドリアン・ニューウェイが設計した881は、決勝最高位2位、予選最高位3位という好成績を収めた。全レースをターボ車が勝利したシーズンだったが、881は日本GPでは1周とはいえラップリーダー記録した。このシーズン、NA車両がラップリーダーを記録したのは、このときの881だけだった。マウリシオ・グージェルミンも、新人ながら入賞2回(イギリスGPの4位、ハンガリーGPの5位)を記録した。1989年にはレイトンハウスが正式にマーチを買収した。この年の初めにカペリのマネージャー、チェザーレ・ガリボルディが交通事故死した。ガリボルディへの弔意を示すため、そのイニシャルを取ってこの年のマシンはCG891と名付けられた。CG891はニューウェイが空力を優先した設計によるものであったが、過敏なマシン特性と信頼性の問題を抱えることとなった。空力にこだわったニューウェイは、マシンの塗装の厚さや、スポンサー名のステッカーの厚さにまで注文を出すほどだったという。CG891には、76度のVバンク角を持つジャッドの新エンジン、EVを採用したが、信頼性に問題を抱えた。この年は前年型の881(エンジンはジャッドCV)で3位の表彰台を獲得した開幕戦ブラジルGP以外にはポイントを獲得することができなかった。ただ、メキシコGPではカペリが予選4位を獲得、またフランスGPではグージェルミンがファステストラップを記録するなど、時折速さを見せた。1990年にチーム名を「レイトンハウス」に変更し、1991年まではコンストラクターとしての「マーチ」の名は姿を消すこととなった。1990年は、前年以上にエアロダイナミクスに対して非常に敏感な車となってしまい、サーキットの特性によって成績が極端に変化した。路面がバンピーなサーキットでは、車のセッティングがまったく対応出来ず、特にシリーズ有数の路面が荒れたサーキットで行われたブラジルGP・メキシコGPでは、2台そろって予選落ちを喫している。一方でフランスGPでは、路面がフラットなポールリカール・サーキットで開催されたことで、風洞実験とデータが一致し、一時は1-2体制を築き、最終的にカペリが2位表彰台を獲得した。また同じく路面がフラットなイギリスGPでも、カペリが一時3位まで浮上した。しかしそれ以降のレースは車のエアロダイナミクスに一致したサーキットが無く、非力で信頼性の劣るエンジンに悩まされ続け成績は不安定だった。翌1991年からイルモアエンジンの供給を受ける契約を結んだ。なおこの間、F3000やグループC用のシャシーの開発も細々と行われていたが、開発リソースの大半がF1マシンに振り向けられたため、グループC用マシンは1988年のマーチ・88G/日産を最後に開発が打ち切られたほか、F3000についてもローラやレイナードといったライバルに食われる形で徐々に成績が下降し、1989年のマーチ89Bを最後に姿を消した。ただし、1989年に傘下に収めたラルトから、1991年にF3000用のRT23がリリースされた。しかし日本のバブル景気の崩壊とともにレイトンハウス本体の業績が悪化。エイドリアン・ニューウェイもチームを去り、シーズン後半にウイリアムズに移籍した。1991年は、前年後半に改良型マシンを手がけたグスタフ・ブルナーとクリス・マーフィーが製作したCG911を投入するも、前年より改善されたとはいえ相変わらず空力に敏感でコンサバティブなシャーシだった上、新規参入のイルモアエンジンの信頼性不足もあり、入賞もハンガリーGPのカペリの6位1回のみと低迷した。さらに追い撃ちをかけるように、同年9月にはチームオーナーの赤城明が富士銀行不正融資事件で逮捕され、直後の日本グランプリではレイトンハウスのロゴを外して出走した。さらにチームは日本グランプリ前にカペリとの契約を解除し、スポンサーを持込んだ「メルセデスの3羽カラス」の1人、カール・ヴェンドリンガーをデビューさせることで資金難を凌いだ。なお、シーズン終了後にレイトンハウスはオーナー権を放棄した。残されたチームは、4年ぶりに「マーチ」へと改称し、ヘンリー・ポーレンバーグが代表になる体制で参戦するものの、メインスポンサーであったレイトンハウスを失い、ポール・ベルモンドとエマニュエル・ナスペッティの2人に加え、グループCや鈴鹿1000kmで活躍し、10年ぶりのF1参戦となるベテラン、ヤン・ラマースの合計3人が小口スポンサー持ち込みで加入した。しかしそれにも関わらず、十分なスポンサーが集まらずマシンはチームカラーのライトブルー(レイトンハウス時代には「レイトンブルー」と呼ばれていた緑がかったライトブルーからライトブルーに変更されている)のみが目立つという惨状。この様な状態では戦闘力を云々するレベルではなく、カール・ヴェンドリンガーがカナダGPで得た4位のみが特筆すべきリザルトであった。この年の資金難から、チーム解散が噂されていたが、翌1993年にもFIAにエントリーを申請しリストにもチームは載ることになった。ドライバーは、前年久しぶりにF1に復帰したヤン・ラマースと前年の国際F3000選手権ランキング5位の新人ジャン=マルク・グーノンと契約した。マシンは1991年に設計されたCG911をそのまま使用することを表明。しかし、いざ開幕してみると、折からの世界的な不況の中で十分な資金が集まるはずもなく、開幕戦南アフリカグランプリに現れたのは両ドライバーだけでチームは現れなかった。結局チームはそのまま消滅してしまった。2010年のF1世界選手権にエントリーを提出したことが明らかとなった。現在マーチの名称権を保有するアンドリュー・フィットンが申請、FIAに受理された。しかしながら、FIAの選考を通過できず、2010年のF1参戦は認められなかった。
出典:wikipedia
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