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高杉小忠太

高杉 小忠太(たかすぎ こちゅうた)は、江戸時代末期(幕末)の武士(長州藩士)。家格は大組士。高杉晋作の父である。幕末の武鑑では萩藩側用人の欄に「高杉小忠太」とある。兄は春徽(小四郎)。系図上の弟は田上由準(宇平太。血統上は叔父)。文化11年(1814年)10月13日、長州藩士で200石取りの高杉春豊の次男として萩で生まれる。次男だったため、はじめ長州藩士・武藤又左衛門(大組・280石)の養子となり弥四郎正方と名乗るが、兄が死去し、実家の継嗣が絶えたために旧姓に復して家督を継いだ。天保5年(1834年)から藩主・毛利斉元の小姓として仕える。天保7年(1836年)に毛利斉広が藩主になると近侍となり、天保8年(1837年)に毛利敬親が藩主になると小納戸役に任じられた。嘉永4年(1851年)には敬親の養子・毛利元徳の奥番頭に任じられる。文久2年(1862年)には上洛し、直目付・学習館御用掛に任じられて長州藩と朝廷・幕府の交渉役を務めた。文久3年(1863年)1月に帰国すると9月には直目付を辞職し、子の晋作に家督を譲っている。元治元年(1864年)8月に第1次長州征伐が始まると、その余波を受けて失脚を余儀なくされた。慶応2年(1866年)に直目付として復帰し、明治2年(1869年)6月には大監察となって藩政を掌握した。明治3年(1870年)には権大参事となり、諸隊の脱隊騒動を木戸孝允らとともに鎮圧する。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で政界から退隠し、以後は主家である毛利氏の歴史編纂事業に務めた。ちなみに長男の晋作は慶応3年(1867年)に早世していた上に谷氏という分家を興していたため、高杉家は明治9年(1876年)に娘婿の高杉春棋(村上常祐三男)に譲っている。明治24年(1891年)1月13日、東京で死去。享年78。明治44年(1911年)に正五位を追贈された。

出典:wikipedia

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